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自分をどう見たらいいのだろう [身辺雑記]

自分のことは、すでに分かりきったこととして考える習慣がついている。
自分は欲を持ち、こんなことが好きで、そしてある目標を持ち、
でもこのような癖があるなど、なんとなく自分の存在というものを了解している。

でもこれで、自分については理解が完了したといえるのだろうか。
そのように感じている自分は本物なのだろうか。
疑問に思うことが増えた。

べつにジョハリの窓のことを言うつもりはない。
もっと根源的なところの自分の存在が
はたして分かっているのだろうか、という疑問なのだ。

1年半ほど前の経験をすこし語ってみたい。
寝たきりでほとんど意識があるのかどうかも
わからない状態が3年続いた母が、
一昨年の11月に衰弱して亡くなった。

神式の葬儀を済ませたのち焼き場で待つ間に
親戚一同の集まる会席が設けられた。
喪主の自分はここで出席いただいたお礼を述べ、
母のこれまでの経過などを述べる短い挨拶をする
つもりだった。

母のこれまでの人生を語ろうとした。
母の人生・・・
と言い始めたときに、急に嗚咽のがこみ上げてきた。
これまで育ててもらったいろいろな光景が、
一気に襲ってきた感じがした。喪主の自分は、列席者の前で、
襲い来る感情の波に翻弄されて立ち往生してしまった。

だれも発言しない、喪主も立ち尽くしている。
そんな時間が何分間か流れた。
ようやく平静を取り戻した自分は、短く挨拶をまとめて座った。
家族の前で泣いたことなどなかった。
だれも言葉を発しなかった。

自分の心の深いところで、母の人生は哀れだったな
という気持ちが奥深く流れていたのだろうと思う。
普段はそんな感情は意識すらしていなかった。

その経験から、自分は思う。
いま意識の上でこれが自分だと思っている自分は、
本物とは言えないのではないか、ということを。
葬儀での失態から、自分という存在を成り立たせている
深くて見通せないようなさまざまな要素というものの
存在を思い知った。

もっと奥深いところで、自分の存在は、
長い時間の流れのなかで、両親のしつけばかりでなく、
記憶にもないような人々からも教えられ、
そのときどきで必死に学び、
自分というものを形成したのではないかと思う。

別の分かりやすい表現をすれば、
人間はほんとうに恩知らずで、
もらったものは受け取っておきながら、
そのことを都合よく忘れてしまう。
ぜんぶ自分の努力で獲得したと思っている。

赤子から少年になるまで、自力で何かを獲得する
なんてことは出来るはずもない。
でもそれを忘れて、自分でやってきたくらいに思っている。

自分の身体も、自分で作ったわけでもないのに、
顔も、脳みそも、手足も、自分で関与して作らなかった。
でもこれが当たり前のように自分だと思っている。
寝ている間も、肺が空気を吸い、心臓が脈打ち、
食べ物を消化しているのに、それを意識することすら
出来ない。

自分の存在は、網の目のように絡まったさまざまな要素が、
うまく作用してここにあるだけなのではないか、
そんなことをこのごろよく考える。

そうあらしめているいのちを育んで包んでいるものは、
いったい何と呼ぶべきなのだろう。
ついでに、このような自己存在のあり方を
徹底して究明してきたのが仏教の教えなのではないか。

(2014-05-30 SNS日記より)
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