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あの世に関する討議を経て [死]

昨日は、宗教に関するテーマを勉強する小さな集まりで、
トークをさせてもらった。これで2回目のトーク。

この集まりでは、おもに生死観やあの世に関する話題が多いのだが、自分の生命観、生死に関する考え方を披露させてもらった。

トークのあとの討議において、主催者のH先生から、質問と討議が行われた。H先生は、臨死体験や生まれ変わりなどの事象について長年調査をされており、あの世はあるのだという立場に立たれている。質問と討議は、とうぜんこの部分に関することがらだった。

質問のひとつは、わたくし(OASIM)が、死後の世界があると考えているかという点。答えは、明確ではないことがらなので在るとも無いとも言えないという回答。また死後の世界への関心は、ほぼまったく持ち合わせていない。

逆に当方からの質問。
あの世が在るか無いかは、おそらく決着がなかなかつかないと想定される。科学的な証明という土俵に、上ることは無いだろうと考えている。H先生はどのような動機で、それを調査されているのかという問いかけ。

大別すると、純粋に学問的な関心から臨死体験を調べるスタンスと、もう一つは、宗教的な観点から、死んだらどうなるのだろうかという不安や心配から調査する観点があると思うが・・・。

するとH先生は、学問的な手法でこの問題を調査しているものの、ようするに死んだらどうなるかに関して疑問を持っているとのこと。

あの世があると考える方が、この世で安心して生きて、死んでいける。あの世が無いとすると、この世の出来事(善行や悪行)は継承されず、あの世における審判のようなものが無いことになる。

卑近な言い方をすれば、やりたい放題に悪を重ねても、だれも罰せられないこととなり、マジメにやってきた人は損をする。やりたい放題の人間は得をする感覚がある。

つまりあの世を想定することで、死の不安や心配をぬぐうことができるし、この世の秩序をたもつ効果をもたらすという考え方であった。

そこでさらに質問。
その得をするのは、何に対してなのか。まじめに生きて、やりたいことも我慢したのに、やりたい放題でもよかったのにという後悔があるからでしょうか。

また、やりたい放題の悪行を重ねて、思い切り自我の欲するままに周囲の非難や迷惑、影響を考えずに生きてきた人間の最期は、どのような心境ですか。人生やりたいことやって、ああ、よかったと感じますでしょうか。

またもう一人の人間がいて、自身は貧困であっても、ひとのために尽力し、陰徳を積むような生き方をしてきた人の最期の心境は、どのようだと思われるでしょうか。
さらに、やりたい放題だった人の末期の心境と、徳を積んできた人の心境と、どちらが優れていると考えられますか。

この最後の質問に対しては明解な答えは得られず、別の話題に移った。

******

ボクは思う。
あの世で最後の審判や、閻魔大王が待っていて、
この世の善行、悪行に関して裁かれるので、この世を清く正しく生きるという考えは、刑法とおなじで刑罰への恐怖心が犯罪の抑止力になるという考え方とおなじである。
だからあの世が無かったとすれば、やりたい放題した方が、得だということになる。

この考え方は、自我を満足させればさせるほど、得をして満足であるという人生観に立っている。つまり自我の満足度で人生の充足度が決まるという考えである。

あの世の有無の議論をしているけれど、ようするに現世の生き方(自我の満足)の価値観の問題に帰着している。

しかし、死を前にしたとき、自我のやりたい放題が最大級のレベルで否定されるわけだが、この点はどう折り合いをつけるのであろう・・・

仮に、死ななければならない存在であると認めるにしても、あの世がある方が安心だということは、この我はあの世まで存続できることになるからなのだろうか。

あの世があると推定するのは、この世の安心を優先して、あの世を考えているということになるだろう。
この世での願望がもとになって、あの世が存在している方がいい、だから在るのだという議論になる。

この討議で、結論らしい結論はでていない。
先生の考えておられる道筋は、よくわかった気がする。

(2016-04-17 SNS日記より)

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