SSブログ

余計なおせっかいだが、宗教のことをすこし書いてみる [宗教]

宗教に近づくのは、若いころと老年を意識し始めたころだ。
若いころは、まだ知らぬ深遠な世界があるのではと思って接近する。
年老いてからは、死が近づいてきてこの先がわからなくなった頃だ。

信仰のあり方や、そもそも宗教と何ぞやという議論がまま起きて、
必ずといっていいほど提出される意見がある。

ひとつは「鰯の頭も信心から」という言葉に代表される、
得体の知れないあやふやで未知のものを信じる姿を批判するもの。
おもに科学的見地を強調、あるいは絶対化する立場からだ。

もう一つは、ニーチェに代表される批判で、弱者の怨念や
寄る辺なさから神や超越者への信仰が形作られるというもの。
つまり弱者の立場から宗教が生まれるとするものだ。
そして、この二つは一緒と見られることも多い。

自分はそのどちらにも組しないが、かといって宗教とは無縁かというと、
間違いなくその正反対の方だろう。日々、宗教に関する本や経典を読まぬ
日は無いし、宗教をテーマとする集まりでお話させていただいている。
そういうと自分の立場を明確にせよと、お叱りを受けそうだが、
基本的に、お釈迦様が説いた仏教に帰依している。

自分の学んだバックグラウンドは科学技術にあって、専門分野は
量子力学、半導体工学、マイクロ加工技術、センシング技術だ。
現役時代は、主に研究開発や製品開発の現場に籍を置いた。
合理的なことがらに馴染み、実験や推論を重ねてきたいわば理系人間である。

だから不合理なことがらを、「鰯の頭を信じる」ようなことはさらさらない。
ただ自分は思う。
科学技術の進歩により、わかってきた知見が増えるのは事実だが、
おなじか、それに倍加して、新たに分からないことがら、謎や疑問、課題が
増えて来る。

科学技術の進歩により、人類が知り得た知識の量が増えて、
そのことにより未知の世界が狭くなり、やがて無くなるだろうと
考えるのは正しいとは思えない。

この世にあり得る知識や情報の量が一定で変化しないと考えるのは、
妄想では無いだろうか。知らない世界のことは知識が無い。
だから単純化してそれを考えるしかないのだ。

ひとたび未知の世界の扉の端緒が開かれるたびに、
多くの疑問が噴出してくるものだ。そして研究課題が増える。

火星の軌道を観察することしかできなかった時代にくらべ、
そこへ探査機を送り込んで観測をするようになった現代は、
火星に関する知見が増えた分、未知のことがら、疑問は
はるかに増えているのである。

宇宙に関する新しい知見が得られるたびに、このすばらしい法則を、
作り出したものは偶然なのだろうか、生体の機能の新しい発見が
なされるたびに、このような精緻な仕組みがどのようにして
生まれたのだろうと、感嘆することも増える。

ニュートンは自分自身のことを、真理の海の浜辺で新しい貝を見つけては
喜んでいる子供に過ぎない、真理の海は人知でははかり知れない
深いものだという趣旨のこと述べていたと記憶する。

またアインシュタインの次の言葉にも共感する。
『自然の真の探求者なら、だれでも一種の宗教的畏敬の念がある。
というのも、自分のさまざまな知覚を結びつけるきわめて繊細な糸を
考え抜いたのは自分が最初だ、と想像するのは不可能だと感じるからです。』

知の地平を新たに開拓した巨人ならではの言葉であるが、
その知の限界を知るがゆえに、その先のものへの畏敬の念が、
おのずと生ずるのであろうと想像する。
すべて知り得た、すべて克服した、と奢るような気持ちは
微塵も感じられない。むしろますます謙虚になるように感じる。

人知を超えた世界のことは語りようがないが、畏敬の念を持つことはできる。
宗教が語られる素地というのはそれを基にしていると考える。

禅者のことばに、釈迦が悟りを開いたとき、もし釈迦の姿を傍から見たら
大きな疑問符だけがそこにあることが分かるだろう、というものがある。
大いなる疑問符、宗教はそこに関わる。

(2016-05-25 SNS コラム記事より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。