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心貧しき人 (補足編) [キリスト教]

イエスに説教に、こころ貧しき人は幸いであるとの言葉があります。
この貧しい人という表現に、つまづく人が多いだろうと思います。

神を受け入れるこころの余地のたくさんある人というふうに自分は考えます。
神だけでなく、ほかの人の存在や生き方などに関しても同様です。

パリサイ人や律法学者は、罪を犯した人たちや、
律法を守れない人たちを、心の中でバッサリと切り捨てて、
それを裁き非難します。

その人の陥っている事情や生活の背景や、
そういうことには関心がなく、まして情状酌量のような気持ちや、
その立場に同情するというような余地もないのですね。
罪を犯した人は悪の権化であるかのように見ます。

※※※

話は変わりますが、自分は絵画教室や公民館などで講座を持っていますが、
生徒さんたちの上達の姿や、途中でやめてしまった人たちの姿を見ていて、
「心の余地」というものの大切さを思います。

水彩画などの知識がほとんどなくても、いわれたとおりに道具をそろえ、
素直に学んでいく人は、ある時期になると急速に上達して、
いい絵を描くことができるようになります。
1年目は言葉がわかってくる段階で、これまでの経験では、
3年目くらいからびっくりするような上達をみせます。

このような方たちの姿には、「愚直」ということばを思い浮かべてしまいます。
先生から言われたことがよく分からずとも、ともかくついてくる人。
言葉がわかってくると、どんどん吸収していく感じがします。
他の分野でも、やはりこのような方が上達の姿を見せるのではないかと
思いますね。

いっぽう一年もしないうちに辞めてしまう人は、
決まったパターンがあると分かるようになりました。
それは一言で言えば「自説を持った人」、あるいは「疑い深い人」です。
自分を持っている人というふうにも見えます。

こちらのアドバイスに対して、それを受け取ることをしないで、
自分の考えをぶつけてきます。それに対して説明を加えていくと、
その人の心の中に葛藤が生まれているのです。
自分の思っていること、疑っていることが首をもたげているのですね。

何年も絵を描いてこられた方で、知識も豊富であるというならば、
意見の相違や描法のちがいなどがあって当然です。
しかしこれから始めようという段階の方が、自分の考えを持っている、
あるいは疑いを持つというというのは、
すこし自分の持ち分が過剰ではないかと感じます。

このごろは、スタートする前から、辞めてしまうだろうと予想がつきます(笑)。

習うということは、真似することでもあり、それは自分を捨てるということです。
虚心に先生の言うことを聞いて学んでいこうということです。
また、名画の模写がものすごく勉強になるのは、
自分を捨てるように強いてくるからです。

守破離という言葉がありますが、最初はいわれたとおりに
伝統を守るという部分がきます。
それは自己を捨てていくということでもあります。

キリストのことばを使わせていただくならば、こころ豊かな人、
自分でいっぱいの人に相当するように思います。
律法学者のように自分を説を強く持つというより、
疑いを持つという消極的な自説ということになるのかもしれませんが。

どれだけ言葉を尽くされても、自分の経験や知識、
疑念などが邪魔をして、相手の言葉を受け取れない。
これは習い事ばかりでなく、宗教のような人生をかけるような
状況でも似ているなと感じます。
疑うことは人生をダメにしてしまうこともあります。
心貧しいとは、おのれを空しくして素直について行く姿なのですね。

(2016-07-23 SNS コラム記事より)

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