疑いに疑いを重ねて・・・ [宗教]
もし真剣に信じるに足るものを得ようとするならば、まず、とことん疑いに疑って、
疑問を積み重ねた先に見えてくるものを、探し求めなければならないでしょう。
信仰というものはそういうものと思います。
あいまいなものを、まるごと信じてしまうということではありません。
これは口で言うほど簡単ではありません。
たいていはいい加減なところで妥協します。
周りの人や信者がそういっているからとか、
偉い先生が言っていることだからとかで、
自分が納得してしまうのです。
またはっきりしていないことがらを、断定してしまいます。
疑いの苦しみに耐えられなくなるためです。
安易に信じられることが欲しい、という気持ちに流されているのです。
とことん疑ってそのあとに残るものこそ本当のことがらで、
その答えが出ないうちは、まだ到達していない、
というしかありません。
このようなことの根本には、死の問題に耐えうるものでなければ、
信仰は意味がないと思うからです。
そうでなかったら、信仰を持っていますということは、
装飾のひとつであり、生活の彩りであり、格好つけに過ぎません。
それは自分を騙しています。
キリスト教の信者であることを誇る人がいますが、
それはチャンチャラおかしいのであって、
信仰は誇るような類のものではありません。
もともと人に対して誇りを持つことが、どのようなことを示しているのか、
自らを高めるものは低くさせられます。
信じるという行為のギリギリ先端にあるものは、
キルケゴールの言葉を待つまでもなく、絶望であり、
自分の存在を一切合切失うかもしれない崖っぷちの状況です。
そのような地点を経過しない信仰kとは、
いったい何の意味があるのだろうかと思いますね。
祈りの言葉を口にしたからとか、洗礼を受けたから、
信者になるわけではありません。
確固たる信仰を得たということにはなりません。
涅槃経に釈迦が語った深い言葉があります。
釈尊がおっしゃられた。
「疑う心を生じるならば、無量の煩悩をやぶることができる。
固定した思いを生じることを執着と名づける。」
迦葉菩薩が申し上げた。
「世尊よ。執着とはどのようなことでしょうか。」
釈尊。
「自らにくっついた「思い」を捨てることができないことを執着というのである。」
迦葉菩薩は重ねて申し上げた。
「執着している人はもともと自ら疑ってさえいないのです。
どうして疑いのわなをやぶることができないとおっしゃるのですか。」
釈尊。
「善男子よ。それを疑わないことが、すなわち疑いである。」
とことん疑って、疑いつくして、分かったこと、分からないことを峻別していく、
そしてそういう自分自身の思いすら疑っていくこと。
最後に残っていることがらこそ、信じるにたるもので、
どのような事態になっても持ち続けることができる信心ということができるでしょう。
(2016-07-28 SNS日記より)
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疑問を積み重ねた先に見えてくるものを、探し求めなければならないでしょう。
信仰というものはそういうものと思います。
あいまいなものを、まるごと信じてしまうということではありません。
これは口で言うほど簡単ではありません。
たいていはいい加減なところで妥協します。
周りの人や信者がそういっているからとか、
偉い先生が言っていることだからとかで、
自分が納得してしまうのです。
またはっきりしていないことがらを、断定してしまいます。
疑いの苦しみに耐えられなくなるためです。
安易に信じられることが欲しい、という気持ちに流されているのです。
とことん疑ってそのあとに残るものこそ本当のことがらで、
その答えが出ないうちは、まだ到達していない、
というしかありません。
このようなことの根本には、死の問題に耐えうるものでなければ、
信仰は意味がないと思うからです。
そうでなかったら、信仰を持っていますということは、
装飾のひとつであり、生活の彩りであり、格好つけに過ぎません。
それは自分を騙しています。
キリスト教の信者であることを誇る人がいますが、
それはチャンチャラおかしいのであって、
信仰は誇るような類のものではありません。
もともと人に対して誇りを持つことが、どのようなことを示しているのか、
自らを高めるものは低くさせられます。
信じるという行為のギリギリ先端にあるものは、
キルケゴールの言葉を待つまでもなく、絶望であり、
自分の存在を一切合切失うかもしれない崖っぷちの状況です。
そのような地点を経過しない信仰kとは、
いったい何の意味があるのだろうかと思いますね。
祈りの言葉を口にしたからとか、洗礼を受けたから、
信者になるわけではありません。
確固たる信仰を得たということにはなりません。
涅槃経に釈迦が語った深い言葉があります。
釈尊がおっしゃられた。
「疑う心を生じるならば、無量の煩悩をやぶることができる。
固定した思いを生じることを執着と名づける。」
迦葉菩薩が申し上げた。
「世尊よ。執着とはどのようなことでしょうか。」
釈尊。
「自らにくっついた「思い」を捨てることができないことを執着というのである。」
迦葉菩薩は重ねて申し上げた。
「執着している人はもともと自ら疑ってさえいないのです。
どうして疑いのわなをやぶることができないとおっしゃるのですか。」
釈尊。
「善男子よ。それを疑わないことが、すなわち疑いである。」
とことん疑って、疑いつくして、分かったこと、分からないことを峻別していく、
そしてそういう自分自身の思いすら疑っていくこと。
最後に残っていることがらこそ、信じるにたるもので、
どのような事態になっても持ち続けることができる信心ということができるでしょう。
(2016-07-28 SNS日記より)
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2017-01-11 16:37
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