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おごり (自分のためのメモ) [宗教]

信仰に至るその前には、疑いに疑いを重ねる過程があるということを記しました。
疑いの果ての絶望的な状況の中から、
それを踏み台にして信仰というものが入ってくると考えています。

でもこのような話、きわめて特殊であり、面白くもなく、
一般に話題にするようなことでもありません。
自知する人が知っておけばいい話題です。
そのことを痛感しています。

そもそも宗教などそんなものです。楽に生きれる人はそのままでいいのです。
宗教に無縁であるなら、それでいい。苦しみを抱えていない人に、
わざわざ宗教を勧めるとか入信させるなど、とんでもないことで、余計なお世話です。

もし人に勧めたいという気持ちがあるのならば、
その不純な気持ちを振り返るのがいいと思います。
人は人。
人の生き様を見て、自分が知り得た教えの方が優れている
と思うのは、思い上がりというものです。

人は得ただけその分、誇りというものが生まれます。
オレはこれだけのことを成し遂げた、
だからオレを敬え、オレを尊敬しろという気持ちは、
どんなに謙虚に振舞っていても、
おのずと体から滲んできます。
それはとってもイヤラシイ。

※※※

維摩経というお経がありますが、このなかに舎利仏と天女の対話が出てきます。
(舎利仏は、般若心経のなかに、観音菩薩が呼びかける相手として登場する仏陀の高弟です。
般若心経では、舎利子、云々と出てきますね。)

舎利仏「あなたはなにを覚って、このように説くのですか。」
天女「わたしは得るところもさとるところもありませぬから、
このように説くことができます。
もし得るところ、覚るところがありますならば、きっと驕慢心をおこすでしょう。」
驕慢心をおこす元となるから、自分の得たものは無いということを宣言します。
知恵すら所有しないということですね。

自我の働きが煩悩と変わるのは、この自分が自分がという妄執によってです。
その理由は自分の「所有」と関連しています。何も持ち物がない、
生まれてきたときは何も持っていなかったという地点に立っていればいいのですが・・・

ところが、生きている間に所有ということが出てきて、
この所有物から誇る気持ちが生まれ、驕りが出てきます。
もともと何も持たずに裸で母の胎から生まれてきた、
とはヨブ記の言葉ですが、まさにこれ。

(2016-07-29 SNS日記より)

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