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詩のトライアル [文学]

あまり日記において詩について触れたことがないけれど、
じつは詩誌「プリズム」への投稿を続けている。
会員のなかの半数近くは詩集を上梓していて、
詩と思想新人賞をとった方もおられる。

自分はその中の不良会員で、中扉のカット画の提供などを
させていただいているものの、詩の方はさっぱりだ。
うまく書けたことが無い。投稿期限が近づくと、
毎回塗炭の苦しみを味わうことになるのだ。

自分のテーマは子ども時代の回想と現在、
という大きなくくりがあるけれど、
それ以外のテーマを考えたことがない。
とくに恋愛的なものは若い頃を除き書いたことは無かった。

年齢を重ねれば、恋愛的なものごとから離脱していくのが
自然であるという考え方がある一方で、
逆に今までできなかった事柄を(死ぬ前に)やっておこう
という考えがあるように思う。
不倫に興味を持ち始めるというのも、
あんがい後者のような考えがベースに流れているかもしれない。

テーマからすこし離れてみようというこころみで、
トライアルに原稿のさらに原稿のようなものを書いた。
どんなテイストになるのか不明だ・・・
作者名は、ここではハンドルネームとする。


 ふゆがれのみち
                  OASIM
きみとはなしができなくて
きょうはつまらない
なぜれんらくをくれないのか
ぼくにはわからない
くさくさしているぼくって
へんだろ
なぜひとはひとをもとめあうのかな
きみにであわなかったなら
きっとぼくのせいかつは
しきさいをうしなって
ものくろのあじけなさ
いっしょにあるいたみちを
おもいおこすと
こだちのまえをあるくきみのすがたがうかぶ
かれはをひろい
きれいねとささやいたきみの
ほほにこもれびがゆれていた
きみがいることで
むねのなかに ひみつのこべや
いきていることのいみをみつける
きみからのれんらくがないへやで
ただきみのことをおもっている
そんなぼくって
へんだろ

(了)

(2014-11-20 SNS日記より)

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個性の発露 [文学]

T・S・エリオットの詩はむかしからよく読んだが、エリオットの詩学は難解で理解しやすいとはいえない。
それは内容が難解なためである。
(したがって、この日記も難解になる可能性大である)

しかし、エリオットの言わんとしていることは、個性の発露が詩という文学を成り立たせる要点なのではないということだ。逆に個性を消滅させることにより、自己をより価値あるものに服従させなければならない、という考えだ。

詩や文学は、個人の感情を表現し、個性を発露させるものであると考えるのが一般的だから、エリオットの考え方はたしかに理解しにくい。しかし、いつしか自分もエリオットに賛同するようになったということを白状しなければならない。

個人の感情など、ありふれていて、特別にたいしたものではないという諦念に似たものがある。しかし、感情を軽視するという姿勢とは少しちがう。よくよく振り返れば、さほどお前さんは独自で天才的な感情を抱いているわけではなかろう、ということだ。そんなに自分を特別視して、感情を発露したところで、それだけで文学が成り立つわけではないと気が付く。

同人誌の詩などには、この個性主義の自己の感情に溺れきって書いたという作品が並んでいることが多い。でもそれは他人の眼から見れば、ありきたりで特別なものなど感じない感情表現だなと思う。その作品を否定する気はないけれども、文学の核心は別のところにあると感じる。

何が文学や詩を成立させるのかという大テーマになってしまうが、やはりエリオットはうまいことを言っていると思う。

自己流に解釈してしまえば、価値ある普遍的なものへの通路を開けるのが個人の役割ということだ。亡くなった故人とのコミュニケーションを行う巫女さんのような役割だ。亡くなった人の考えを訊くことが大切なのであって、巫女さんが出身がどこでどのような人格かなどは問題視されない。死の世界との通路を開けてあげる役割こそ本質だ。

このことは芸術一般にも通じていて、たとえば絵画の世界でも同じだなと感じることが多い。画家の個性が注目されるのではなく、画家の個性を通じて、どれだけ風景の真実や花の真実に迫っているかが問われる。花はこれほど美しかったのかと気が付かせてくれるもの、あるいは風景の美とはこういうものなのだと納得させてくれるもの、それが普遍的な価値あるもので、そのガイド役として画家が介在し立ち会っている。画家に個性はあるけれども、その個性がテーマではないということだ。

逆説的に、自分固有の表現などに悩む必要はないともいえる。むしろ普遍的な価値あるものへの没入の度合い(深さ)やその世界を描ききっているのか、その点に悩むべきだろう。

(2014-05-13 SNS日記より)

寂寥 [文学]

むかしから愛読する詩人に、辻征夫さんがいる。
いつも傍らに詩集を置いていて、パラパラと読む。
次の詩は、『鶯』という詩集に収められている。

++++++++++++++++++++++++++++++

裏庭
         辻征夫

梅の木が
裏庭にあるはずだ

裏庭にはゆかぬから
しばらく見ぬが
たしかに
あるはずだ

(五歳のとき
いちばんたかい枝に
おおきな鳥がきて啼いていたが)

爺 あの鳥は
どこへいったのであろう

++++++++++++++++++++++++++++++

ボクは寂寥という感情を覚えるけれど、
最近はこのような感情を
あまり話題にしないものだ。

過去への愛惜や、
どうしようもない過ぎたことがらを
いとおしむ感情。

それはなぜなのだろう。

そして、詩はこの寂寥というものを
背景にうたわれる文学のひとつだと
思っている。

現代の生活は、それらの気持ちを排除することで
成り立っているのだろうか。
それを見つめないまま生きていけると
考えているのだろうか。
それが可能だと考えているのだろうか。
人生から寂寥を排除することなどできるのだろうか。

思うようにならない人生を
そのまま見つめることだって
あっていいと思う。

ところが成功哲学とか
ポジティブ思考とか
いつも太陽の日が射しているような
明るいところで生き続けられるかのような
考え方が一般化してしまい、
負の部分や、陰の部分に目が行かなくなった。
光の中に居続ける強迫観念に
囚われるようになった気がする。

負の部分があって、正の部分も光るのに、
望ましくない部分を排除してしまえば、
正の部分も輝きを失う。
光を描こうとすれば、暗黒を描かなければいけない。
暗黒を消してしまうと光も輝きを無くす。

光と陰など、
対立概念は、片側だけでは存在できない。
人生の喜びも、寂寥とセットになっている。

(2014-03-27 SNS日記より)

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