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中心から外すということ [人生]

パール・バックの言葉です。

「私が世の中の人々を、避けることのできない悲しみを知っている人たちと、全く知らない人たちとの二種類に分けることを知ったのはこの頃でした。というのは、悲しみには和らげることができる悲しみと、和らげることのできない悲しみという根本的に異なった二種類があるからです。
・・・和らげることのできる悲しみというものは、生活によって助けられ、いやすことのできる悲しみのことですが、和らげることができない悲しみは、生活をも変化させ、悲しみ自身が生活になってしまうような悲しみなのです。」
   神谷美恵子著『生きがいについて』 p.134

その悲しみとは何かということは一概にはいえませんが、
おそらくこのような言葉によって、了解する人と了解しない人がいるでしょう。了解できる人は、その意味を知っていると断言してもいいでしょう。

自分の経験に照らしてみても、癒すことのできない悲しみや苦しみを背負った人と、それらとは無縁で生きてきた人がいることはよく分かります。
後者の幸運な人々というものはいます。そして和らげることのできない悲しみを理解できないがゆえに、不用意に言葉を発したり意見を述べたりすることで、人を傷つけてしまうことがあります。

おのれの人生が順風満帆で、やってきたことが社会的にも認められて、すっかり善人であり社会の規範であるという、強烈な自己意識を持っている人もいます。やがてパリサイ人のように人を批判したり非難したりするようになります。

余談になりますが、イエスはこのような人々を端から相手にしなかったと思いますね。この世で苦しむ人、悲しむ人に寄り添い解放と救いを与えるために短い一生をささげたように見えます。

それはともかく、パール・バックの別の言葉があります。
それは悲しみとの融和ということがらについて述べたもので、こちらの言葉に注目しました。

「そして私の魂を、反抗によって疲れさせることは止めました。私はそれまでのように、「なぜ」という疑問を次から次に持たなくなりました。しかしそうなった本当の秘密は、私が自分自身のことや悲しみを考えることを止め、そして子供のことばかり考えるようになったからでした。
・・・私が自分中心にものごとを考えたり、したりしている限り、人生は私にとって耐えられないものでした。そして私がその中心をほんの少しでも自分自身から外せるようになった時、悲しみはたとえ容易に耐えられるものではないにしても、耐えられる可能性のあるものだということを理解できるようになったのでありました。」
     同書 p.152

パールバックは、娘が知恵遅れの子供であることが判明し、一生面倒をみていかなければならなかったと分かったそうですが、この最後の方で語られた、中心から外すということがらに注目する、と神谷さんが述べられています。

これは本当に重要なことがらですが、宗教的な回心とも関係していると考えます。悲しみや苦しみの中にいるとき、ボクたちは「あまりにそれを真っ芯に受け止めている」と思います。体の真ん中で、受けてしまっています。こうなると解決の道がまったくみえず、絶望に陥っていきます。

それを外すとはどういうことなのか、説明するのはむつかしいのですが、わき腹くらいをかすっているような感覚というのでしょうか。まじめに考えない、というのも近いですが、すこし違います。経験した人ならば分かるように思います。

理屈をまじえて言えば、世界の中心に自分がいて、その自分がとんでもないことになったと慌てているのです。なんでもかんでも自分、自分、自分という自分教の響きの中で生きているのです。

ところが自分は世界の中心でもないし、端っこに生きているものに過ぎないので、他人はそんな世界の中心にいる人とは思いません。だからバタバタとあわてなくてもまず状況をよく見ようと一息いれるような感覚ですね。

苦しみや悲しみが消えるとはいえないのですが、肩の力がパラリと解けてしまうのです。禅でいう悟りの体験もこれに通じているでしょう。

続いてパールバックの言葉です。

「彼女が何年たっても子供から成長しない、知能がそれ以上発育しないだろうということを知ったとき、私の胸を突いて出た最初の叫びは「どうして私はこんな目に遭わなくてはならないのだろう」という、避けることのできない悲しみを前にして、すべての人びとが昔から幾度となく口にして来たあの叫び声、そうです、あの同じ叫び声でした。この疑問に・・・なんの答えも決して出てくるはずがないと最後に私が悟ったとき、私の心は意味のないものから意味を作り出そうという決心になり、そして、それがたとえ自製の答えであっても何かの答えを出そうという心に変わりました。」
    同書 p.154

(2016-07-07 SNS コラム記事より)

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タイムマシンに乗って、生を考える [人生]

なにやらSFっぽい表題なのだが、最初はタイムかマシンに乗って、
愛を考える、にしようと思った。
内容はきわめてまじめな(?)仏教的な話。

ベトナム人の禅僧ティク・ナット・ハン氏の著書のいくつかは、
日本語にも翻訳されていて、愛読書になっている。
ハン氏は、日本の禅僧の趣とはことなり、仏教の根本的な真髄を
まっすぐ語って已まないところが魅力。その内容は直裁的で鋭い。
しかし、わかりやすいかというと、そうではない。
禅書に見られる難解さに出会うことも多い。

ハン氏のこんな文章がある。
『私たちが腹を立てたときにはどのような反応をするだろうか。
ふつう喚いたり叫んだり、金切り声を上げたり、自分の問題なのに
他人を責めたりするが、無常の目で怒りを見つめたら、立ち止まって、
呼吸に戻ることができる。究極の次元でおたがいに腹を立てながら、
目を閉じて深く見つめる。三百年後の未来を思い描いてみる。
・・・
未来に目を向けると、自分にとって相手はとても貴重な存在だとわかる。
いつ相手を失うかもしれないと気づけば、もう腹など立たない。相手を
抱きしめて、こう言いたくなるだろう。
「なんてすばらしいことだろう。きみはまだ生きている!
どうしてきみに腹など立てたのかな。私たちはいつか死んでいかなければ
ならないのだ。こうして一緒に生きているあいだは、たがいに腹を立てる
なんてばからしいじゃないか。」
私たちが自分を苦しめ、相手を苦しめるほどに愚かなのは、ふたりが
無常だということを忘れているからだ。いつかふたりが死を迎えるとき、
持ち物のすべてを失う。力も家族もすべて。いまここに持っている自由、
平和、喜びだけが、私たちのもっとも大切なものだ。しっかり目覚めて
無常を理解しなければ、幸せになることはできない。』

      ティク・ナット・ハン著『死もなく、怖れもなく』p.52

ボクたちは、あまりにも現在のごたごたに気をとられてしまい、
怒ったり貶したり、悲観したり、バタバタやっているのだが、
そんなボクらに向かって、ハン氏は、タイムマシンに乗って、
三百年も後の世界に行ってみたまえと言う。
そしていまを振り返ってみたまえと。

一週間もすれば、ごたごたしたことを忘れてしまう記憶喪失の自分たちだ。
三百年もたったら、自分という存在すら想いだされるのかあやふやだ。
そして相手の存在も。

三百年前に、このふたりがけんかしていがみ合っているとのことだが、
はるか過去のことで、このふたりは二つのゴマ粒みたいなちっちゃなものだ。
じつは、出会って縁があったのではないか、仲がよかったのではないか、
そんな風にも思えるだろう。

**********

ボクは最近理解したことがあって、家内に対して寛容になる、気恥ずかしい
表現をすれば愛するコツを会得した感じがしている。
くるまで出かけたときに、ハンドル握るのはたいていボクなのだが、
助手席の家内は、やれ道を間違ったとか、こっちの道を行くほうが
近いのに、とかこまごまと言う。ハンドル権を持っているのは自分なので、
いちいちうるさい奴だなと思うのが常だ。

で、あるときに気づいた。
ああ、あのときにうるさい奴だと腹立たしく思って、ハンドルを握っていた
けれど、その瞬間は、二人で仲良く車で出かけているあの時間は、
とてつもなく大切で貴重な幸福な時間だった、それは二度と来ないのだと。
それを思い返している自分がいる。

ハン氏がいう、三百年のタイムトラベルは必要なかった。
いまという時間が輝ける幸福の時間なのだ、ということが腹のそこに、
ストンと落ちた瞬間だった。

(2016-05-18 SNS日記より)

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人を幸せにするもの [人生]

先日NHKのスーパープレゼンテーション番組で、
「人を幸せにするものは何?、最も長期にわたる研究から」
を視聴した。

この研究がスタートしたのは1930年代で、
いまだ続けられており70年を超える。
プレゼンはロバート・ウォールディンガーという研究リーダーで、
彼で4代目だそうである。

研究手法はこうだ。
10代の研究対象となる人物を700人あまり選定する。
半分は上流に属するハーバード大学の学生を、
残りの半分は貧民街に暮らす10代の若者だ。

アンケートとインタビューを2年おきに実施して、幸福と感じる体験や、
何が幸福に関係しているか、その考えを調査する。
いまや初代の対象者は90歳代となり、考え方も変わり人生観も変わる。
それを追跡していくという手法である。

対象者の親族や友人など、対象者はますます増えて、
膨大なデータが蓄積された。
その中から人生の幸せとは何かを抽出した。

プレゼンテーションは15分ほどの短いものだったが、
結論は明確で、かつシンプルなものだった。

1.いい人間関係が幸福に関係している。
 パートナーや、ごく親しい友人とのいい人間関係を
 築けている人が幸福を感じる。
 とくに、いざというときに頼りになる人の存在。
 いい人間関係は、脳を守る働きもする。
 友人の数が多いと幸せかというとそうではなかった。
2.富、名声、仕事の達成感などは、幸福とは関係が
 なかった。
3.孤独な人は幸福度が最も低い。
 脳機能も低下しやすい。 
 うらみを持つことはその人自身へのダメージが大きい。
4.退職後、いい遊び仲間を作った人は幸福度が高い。
5.人生の残り時間が少なくなるほど、
 義理の付き合いや、ムダな事柄を切り捨てて、
 幸福に関係する部分に費やす時間を増やす傾向がある。

人生にむつかしいことはいらない、そんな平凡な事柄を思った。

(2016-05-14 SNS日記より)

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