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心貧しきものとは・・・ [キリスト教]

聖書マタイ第5章には、イエスが説教したとされる山上の説教が記されています。
心の貧しい人は、さいわいである・・・と始まる有名な説教です。

この「心の貧しい人」とはどういう意味なんだろうと、いつも不思議でした。
日本語として、心が貧しいとは、どうもネガティブな内容を指すように受け取れます。
イエスの冒頭の言葉がすっきりと身に入ってこないのです。

日本語への翻訳の際に、分かりにくくなったのだろうかと調べてみます。
まず聖書協会の口語訳は、
「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。」

原文は、
「Happy are those who know they are spiritually poor;
the Kingdom of heaven belongs to them!」
つまり心において、あるいは霊的において、貧しいとなっています。
なおpoorは、貧しいとか、哀れな、質の悪い、劣るなどの意味です。

そして、この翻訳とは異なる訳として、フランシスコ会の聖書研究所のものがあります。
「自分の貧しさを知る人は幸いである。天の国はその人たちのものである。」

あるいは、
Blessed are they who knows their spiritual poverty,
for theirs is the kingdom of heaven.(Good News Bible)

こちらは貧しさを自知する者は、といっています。
つまり客観的に言われる「貧しい人たち」というより、
おのれの貧しさを「自覚する人」というニュアンスです。

しかし貧しさというその内容に関しては、はっきりしない印象です。
貧しさとは何を指すのか、しかも貧しいほど幸いであると言われる貧しさとは。

最終的に、自分はこんなふうに考えています。
イエスが語っている他の言葉や説教、
それに新訳聖書を通してイエスが語っていることがらを、
宗教の本質的なメッセージとして受け止め、理解するということです。

イエスはパリサイ人や律法学者を打ち破るために来たのだ
という言説がおおく見られます。つまり法律をきちんと守り、
自ら義人であることを誇る人々、そしてそれを守れない劣った人々を蔑視する、
あるいは処罰せよと叫ぶ人々。

このように自ら頼むところのたくさんある人は、
心豊かと言われるべきものかもしれません。
こころにたくさんものを持っていて、一杯になっている人たち。
そこに神の入る余地はあまり無いのかもしれませんね。

そこに隣人を愛するような精神は生まれようもなく、
罪を犯した女に石のつぶてを投げよと叫んでしまう。
たしかに彼らは律法を犯したことはなく、
何も咎められうことはしていないのです。
ただ、心が自分で一杯。自己弁護で一杯。

このような文脈で見直すと、心の貧しきものとは、
神に向かうとき、こころに何も持たない人、
おのれの(自我の)主張を優先しない人、
なりより謙虚で、敬虔である人、
そんな人間像が浮かんでくるように思います。

こころを空しくできるものは、幸いである。

あるいは、

みずから奢ることなく、素直であり、
あるがままでいられるものは、幸いである。

日本には、心を空しくしてことにあたる、という言葉がありますが、
それに近いのかもしれません。そうすると仏教の説くところと、
たくさん共通するものを感じ取ることができます。

(2016-07-22 SNS コラム記事より)

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前日記への感想に対して [キリスト教]

前日記のボクの語り口に対して、ある方が感想を寄せられました。
(それは日記へのコメントに書かれてはいません。)

その内容とは、日記の記述がペトロに対して可哀想だというものでした。
酷といってもいいくらい、ペトロや弟子たちの行動を追った文章を読み、
そのように感じられたのかもしれません。
日記に記した内容は、すべてマタイ福音書、ルカ福音書の記述に
したがっているものです。(フランシスコ会聖書研究所訳注)

そのように感じられるだろうというリスクは、うすうす感じていました。
克明に事実として何が起きたのかを冷静に記述することは、
科学技術の職業に長年籍を置いていた自分としては自然なことです。

しかし、おそらくそうではない方々には、
なぜそこまでするのかという反応があるのは予想されることでした。
つまりは冷静に起きた事実を見つめる行為の前、
あるいは見つめていく過程で、
可哀想だとかいう情緒に流されてしまう反応です。

でも、まずわかる限りの事実を明らかにしなければ、
福音書に記述されたドラマを理解することはできないと考えます。

そして情緒的な反応について言えば、
ほんとうに可哀想だったのはイエス自身であるという気持ちが
まず浮かび上がります。同情すべきなのは、
捕らえられ無実の罪を着せられ処刑されたイエスの方でした。

ペトロや弟子たちはイエスを捨て逃げてしまうことで、
身の安全を確保しました。イエスの仲間だった事実を、
ウソをついてまで否定して自分の身を守りました。

ではペトロたちを、お前は非難するのかと言われそうですが、
ボク自身もやはりペトロだったろうと感じています。
人間は弱い。身に危険が迫れば、その弱さを露呈してしまいます。
悲しいまでの弱さです。それが人間の現実であり、
いくら誓いを立てていても場面によっては
守ることができないという現実があります。

さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし
(人間は誰でも、目に見えぬ業のちからがはたらけば、
どんなことでもなしうるものなのだ)
『歎異抄 十三条』
という親鸞の言葉も思い浮かべます。

しかしペトロたちは逃げてしまい、
身にふりかかる危険を回避することはできましたが、
こころの安寧を完全に失っただろうと思われます。
どんなことでも、弱さゆえにしてしまうものだと、
魂の深いレベルで自覚したことだろうと想像するのです。

ヨハネ福音書には、姦淫の現場に引きずり出された女に、
石うちの刑をおこなう場面が出てきます。
モーセの律法ではこのような女は石打ちの刑で殺さねばならない。
さあどうするのかと迫る律法学者やパリサイ人に対して、
イエスが発した言葉は、あなたがたのうちで、
罪を犯したことの無い人が、この女に石を投げなさいと言います。

人間は弱い。そして罪を犯す。
その弱さを、あなた方は自覚しているのかと、
イエスは問いかけています。
人を裁いたりする罪の自覚、
何でもしてしまう弱い自分への自覚、
イエスの言葉は、つねにその部分に問いかけています。

(2015-11-29 SNS日記より)

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弟子たちは・・・ その2 [キリスト教]

イエスは不幸な主宰者だったという思いをぬぐえない。
磔刑になるまでの生きている間に、弟子たちと心の通った
会話をしたのだろうか。
あるいは師弟の間で教えの核心について
それこそ肝胆相照らすというような交流があったのだろうか。
前日記で記したように、それらの疑問に対しては、
いずれも否といわざるを得ない。

イエスの教えが福音書としてまとめられるのは、
イエスの死(AD30年ころ)から、40年以上経過した後の
AD70年から90年頃と言われている。
この40年という年数が意味するものは、
イエスの言葉を直接聴いた弟子たちが、やがて世を去る頃に符合している。
じきじきにイエスの言葉を聴いた弟子たちが存命中は、
口による伝承で、イエスの教えが伝えられたはずだ。

おそらく直接イエスの死を体験した弟子たちが高齢となり、
口伝による伝承が危うくなった頃、福音書が編纂された。
孫弟子に当たる人物たちが記録としてまとめたのだろうと想像する。

冒頭で書いたように、師弟間で問答する教えの核心部分について
言葉が欠落しているがゆえに、キリスト教の真髄の部分が、
イエスの口からこぼれることがなかったと見る。
存命中は、パリサイ人と論争、揶揄雑言の中での
孤軍奮闘という姿しか思い浮かばない。
そして弟子たちはイエスの死に際しては
みな逃亡してしまったのだ。

はたして、イエスは救いについて、どのような内容を
語っただろうか。弟子の信仰に関する悩みを聴いて、
イエスは穏やかな表情で、ペトロよ、それはこうなのだよ
とやさしく諭したことだろう。
しかしその内容はついに語られることはなかった。
イエスの言葉を耳にしたかったと願う。

(2015-11-27 SNS日記より)

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