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迷いについての呟き (自分のためのメモ) [禅]

禅に惹かれるひとの大部分は、その悟りの
獲得に興味があるからだろう。
迷いのただなかにいる地点から、
その境地に到達したい、
そのためには何をすればいいのかを知りたい。

でもこの願いは決して満たされない。
成功裏に終わることは無いだろう。
青い鳥を探す場所には、青い鳥は居ないから。
それは土台無理な話だから。

その境地というものが、自分の外にあるという
前提でいる限り、それは自分のものにはならない。
求めるものは、いつまでも求める続けるもののままで
あり続け、自分のものとはならない。
すごく単純なことだ。
求めるという構造から、そう帰結される。

その境地とやらが、何であるのかがわからないと、
到達したのかどうかもわからない。
だから神秘体験や異常な心理状態を、
それだと思い込む。
でもそれらは持続せずすぐ変化する。
その高揚が去ってしまうと、
それは求める境地ではなかったと理解する。
そして次なる青い鳥探しに出かけるのだ。

ネルケ無方禅師は、シンプルに言う。
悟りとは、迷いの自覚なんだと。
自分が迷っていることを自覚することが悟りで、
悟りと迷いは一体にある。
迷いが無ければ、悟るべきことがらもなくなる。
悟りが無ければ、迷いの状態を照らすことはできない。

迷いが不幸で、悟りが幸福とするなら、
不幸から幸福へある日ジャンプするわけではない。
不幸なる自分の自覚が、幸福な自分の自覚になる。
不幸でありながら、幸福だとわかること。

煩悩具足の自分を深く自覚するほど、
救われている自分がわかるのだという浄土真宗の教え。
逆説的に聞こえる道理も、同様の事情だろう。


(2015-10-10 SNS日記より)

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今日の言葉 ~迷悟~ [禅]

道元禅師『正法眼蔵 現成公案』にある言葉。

「迷を大悟するは諸仏なり。
悟に大迷なるは、衆生なり。」

この意味がわかった気がした。
この道元の言葉が、さまざまな解説書があるなかで、
どのように表現され翻訳されているか、調べてみた。

+++++++++++++++++++++

1.「迷いを大悟するのは諸仏です。
悟りに大迷しているのが衆生です。」
   玉城康四郎『日本の思想2 道元集』

2.「この迷いのなかにあってそれと悟るのが仏であり、
悟りをもとめながらいつまでもこの迷いをぬけきれないのが衆生である。」
   増谷文雄『仏祖正伝の道 正法眼蔵<道元>』

3.「迷いを迷いと知るのが悟った人であり、
悟りに執着するのが悟っていない人である。」
   禅文化学院『現代訳 正法眼蔵』

4.「迷いの真の姿を見極めさとることができるのが
諸仏であり、「さとり」をいたずらにもとめて迷うのが
衆生である。」
   頼住光子『正法眼蔵入門』

5.「迷を大悟するは諸仏なりとは、迷っている自己から
真の自己へとゆくのが悟りだということで、
悟に大迷するは衆生なりとは、すでに悟っている自分を
問題にするのが迷いだということです。」
   山田史生『絶望しそうになったら、道元を読め!』

6.「迷いを転じて大悟するのは諸仏であり、
悟りに執着して迷っているのが衆生である。」
   ひろさちや『すらすら読める正法眼蔵』

7.「迷いのなかでしっかりと大悟できるのが、
悟った人間で、悟りの中で迷っているのが凡夫である。」
   ひろさちや『新訳 正法眼蔵』

8.「もしあなたが完璧にあなたの迷いに目覚めたなら、
あなたは目覚めた人の一人。
あなたがその目覚めに大いに迷っているなら、
あなたは苦しみの存在の一人。」
   ネルケ無方『道元を逆輸入する』

9.「仏といわれるあらゆる目覚めた人たちは、
自らの迷いにこそ目覚めた。
迷える衆生は、彼らが追い求めている悟りについてこそ
大いに迷っているのだ。」
   ネルケ無方『迷いは悟りの第一歩』

+++++++++++++++++++++

ここに手元にある9種の翻訳、解説を列記してみたが、
それぞれ言わんとする意味が異なると分かる。
これほどいろいろなんだと驚く。
そして意味不明なものもけっこうあるものだと気づく。
意味不明の翻訳で勉強していたら、
学ぶ人にはたまらないな。
迷いと悟りを別々のものとしてとらえているのは、
ダメだと思う。
ボクがぴったりくると感じたのは、3、9だ。

(2015-10-08 SNS日記より)

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『迷える者の禅修行』を読む (自分のためのメモ) [禅]

ドイツ人禅僧のネルケ無方さんの『迷える者の禅修行』を読んだ。

副題の、「ドイツ人住職が見た日本仏教」とあるとおり、
日本の禅仏教にあこがれて、日本の修行道場で坐禅修行を続けながら、
やがて安養寺の住職となるまでの、苦しい過程が綴られている。

禅寺で行われる修行過程などを読むことは、
日常とは異なる別世界を垣間見るようで、
それはそれで面白いのではあるが本質ではないだろう。

なぜ修行するのか、そしてなぜ生きるのかという根源的な問いに対して、
答えを求め、どういう道を辿り、どのような境地に到達したのか、
そこに興味がある。

本の最後の最後にようやくその答えというも言うべき事柄が語られている。

『「人生の問題を解決せねば」と言いながら、
問題の根源が自分にあることにまったく気づきません。
その根源のはっきりしない問題を「私の修行」で解決しようともがく。
修行にこの「私」を持ち込むことによって、
問題がますます複雑になってしまいます。    p.236』

このようになりがちなのは、欧米人という頭でっかちの思考がある
という趣旨のことを述べているが、それは欧米人に限らない。
日本人も伝統的な東洋的思考をしているわけではなく、
ほぼ欧米人と同じ思考回路を持つようになっていると思われる。

問題だ、問題だと騒いでいるこの自分と言うもの、
その中でめぐっている思考回路に、
問題の本質が潜んでいるということに気づくまでは、
突破できない壁に頭を打ち続けるしか方法がない。

しかしこの迷路にそれこそ頭を突っ込み苦しむ姿は
とても好ましい(とすこし上から目線で言ってしまう)。
日本の仏教の中に、このような真っ直ぐな修行をする人が
どれだけいるのだろうか。
禅仏教はすでにアメリカや欧州へ伝播する時代となったと言われている。

『若かりし頃の私は、人生問題の解決を坐禅に求めていました。
坐禅と出会ってから、二十七年が過ぎましたが、
「坐禅を噛み締める」ことによって、その解決が得られたかどうか、
そこが知りたいという方もおられるでしょう。
実は、「人生の意味とは?」という問いに対する答えを
坐禅が導いてくれた、といえば嘘になります。
「いや、坐禅そのものが解決であった」というのも、
ちょっと違います。そうではなくて、座禅によって、
私の求める方向性が、ガラッと変わったのです。
             p.250』

そして最後にフランクルの言葉を引用している。
それはこうである。
『私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、
はじめから間違っているのです。
つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。
人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。
  ヴィクトール・フランクル
  「それでも人生にイエスという」  より』

人生に生きる意味があるか?
この問いは間違っているとフランクルは言う。
ネルケ住職も、この問いの方向が違っていると言う。
ボクは少し皮肉っぽく、その問いは
生まれる前にすべきだねと言いたい気分。
すでにいのちをいただいて生きているのに、
生きるべきかどうかなんて・・・

(2015-11-03 SNS日記より)

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死んだらすべて終わり [宗教]

人生には限りがあり、いつかは生を離れ、
死ななければならない。
これは当たり前のことだが、
たいていそのことを考えないように、
または忘れるように生きている。

こんな抹香くさいことを言わなければならないのは、
この問題は避けては通れないからだ。
考えないように、または忘れるために、
宴に舞っていても、けっきょく
それも終わりになる。

人生を生きる意味はどこにあるのか、
人生の意味は何なのか、
死ねばすべて終わりじゃないか・・・

誰に問いかけても、その答えは返ってこない。
お寺に行ってお坊さんに問いかけても、
おそらく答えは返ってこない。
あるいは今の坊主は俯いてしまう。
じっさいそうであったと言う話を聞く。
いまやお寺は葬式を執り行うサービス業で、
坊主はサラリーマンに過ぎない。

若い頃よりこの疑問に取り付かれて、
やはりこの世で生きることには意味がない、
真実なのはニヒリズムの支配する世界だと思い込んで、
うつうつとくすんでいた時代が長かった。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++

ここに道元禅師の言葉がある。

「生といふときには、生よりほかになく、
滅というときには、滅のほかにものなし。
かるがゆえに生きたならば、ただこれ生。
滅きたらばこれ滅にむかいて
つかうべしといふことなかれ、
ねがふことなかれ。

       道元 『正法眼蔵』 生死の章」

長い迷路の先にたどり着いたのは、
道元が熱く述べているこの言葉だった。
この単純でありながら、深い考察の言葉。
死んだら終わりと考えて、人生を無意味と
断じてしまうのは迷いだった。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++

「死んだら終わりなのではないのですか?」
「死んだら終わりだ」
「では生きる意味は何なのでしょうか」
「お前は妄想している」
「どこが間違っているのでしょうか?」
「お前には死は無い。
 いま無い死を妄想して迷っている」

(2015-10-24 SNS日記より)

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あなたはあなたのままでいいのに [美術]

絵画教室が終了後、生徒さんから悩みを打ち明けられた。
それは予想もつかない種類の相談であった。
そんなことで悩むのかと意外な感を抱いた。
と同時にかつて、自分もそういう時代を通ったかもしれない、
とも思った。

生徒さんはボク自身の絵画サイトの水彩画や鉛筆画を毎日眺めては、
どうしても同じような絵にならないし、同じように描けないというのだ。
つまりボクのように描くことが、上達と信じきっているのだ!

ひとは人のまねをする必要はない。
むしろまねすべきではない。
(しかし模写は勉強になる)
そして、幸か不幸かまねをしても、
同じにはならないのだ。

絵画の基本的な部分を学んだら、あとは個性を発揮して
どんどん描くべきであると考えている。
いや、個性を発揮しようと思わなくていい。
自分の感性を信じて、自分にとっていい絵だと
思える地点に突き進むのがいいと思う。
その真剣な努力の道筋で、その人なりの魅力が立ち昇るものだ。
その人しか描けない世界がほのかに見えてくる。

自分もかつて迷いの頃があった。
それは、自分に似ている作家を探したのだ。
しかし自分の個性に似ている作家などいないことがよくわかった。
自分の描こうとする世界が、すでに誰かによって
成し遂げられているとするなら、自分が描く意味がなくなる。
そして誰とも似ていないということが
自分の強みなのだとわかった。
兄弟探しは、自分の美への自信のなさの現われなのだ。

それからは、自分の感性を道しるべとして、
心地よいもの、好ましいものを探る方法論を辿った。
どう転んでも自分はこの道になるというものが見えてくる。
それが自分のモチーフとなるだろう。

おそらくルノアールも、伊藤若冲も、
エゴンシーレも、自分の個性をどうこうしようとは
考えなかったにちがいない。
ただ自分が美しいと思えるものに突き進んだ。
その到達点の高さにひとは感嘆し、
新たな個性の出現を称えるのだ。

(2015-10-21 SNS日記より)

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仏教といわなくても・・・ [仏教]

ボクたちの体の重要な部分は、実は遠い星の爆発で
うまれた重い元素から成り立っている。

太陽は、水素からヘリウムへと転換する核融合反応を
エネルギー源にして、燃えている。そこには、
ヘリウム以上の重い元素は存在していない。

血液などに含まれるヘモグロビンの鉄分は、
太陽以外のところから持ってこなければ、
そもそも生命の存続が成り立たっていないはずなのだ。
(ちなみにこの鉄分の酸化還元反応をつかって、
肺で取り込んだ酸素を体中に送り届けている。
静脈と動脈のちがい)

鉄は、遠い星が燃え尽きる最後の最後に爆発するときに、
宇宙空間に撒き散らされる。そのチリを太陽の引力が
集め凝集しやがて惑星になる。惑星の元素を使って、
生命体が生まれた。

ボクはよく考える。
今朝食べるお魚は、何日か前には、北海道の沖の
海で泳いでいたもの。シシャモだったらカナダ沖かも
しれない。シシャモを食べたボクの体は、それを咀嚼して
胃で溶かし腸で栄養を吸収する。

何日か前にカナダ沖の海で泳いでいたシシャモの体を
吸収してしまった。ボクの体の一部は、間違いなく
カナダの海から由来している。

また今吸っている空気は、何日か前は、
ヨーロッパやアフリカを覆っていた風が、偏西風に乗り、
日本の長野の地にやってきているはずだ。

ボクの生きる動力源である酸素は、アフリカを
漂っていた酸素かもしれない。そうだとすれば、
草原の樹木を揺らし、アフリカ象の体をすり抜けてきた
空気を呼吸している可能性もある。
象たちと兄弟関係かもしれない。

遠い星から来た元素を使って血液を造り酸素をめぐらせ、
カナダの海のたんぱく質で筋肉を作り、
アフリカ象と同じ空気を吸って生きている。
これは誇張でもなんでもなく、清々と進行している
事実である。

この日のもとに新しいことは何一つないという
言葉があるが、そんな気分になる。
ボクたちが知ろうが知るまいが、無数の関連性が
作用してこの世界が成り立っている。

自分が生まれる何万年もむかしから、
何度も繰り返してきたのだ。
その網目のちっぽけな結び目のひとつが
この自分だったというわけだ。

2500年前に、お釈迦様は、瞑想することにより、
このような無限のつながりによって、
ものごとが成り立っていることを直覚された。

これあればかれあり、これなければかれなし。
これ生ずればかれ生じ、これが滅すればかれ滅す。

ボクたちは、ようやくその意味がわかりつつある。
科学の進歩によりいろいろな物質のやり取りや
関連性がまちがいないということになった。

お釈迦様が直覚された縁起の法が、
信仰という形を経なくとも、リアリティをもって、
理解できるようになったのだ。

(2015-10-17 SNS日記より)

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生を受く、という体験 [いのち]

ふだん自分たちは、今の日常の生活を、
当たり前ととらえ、その上にいろいろな良きものを
築き上げようと努めている。
いまよりいい生活をしたいがために、
一所懸命働き、いい給料を得ようとしたり、
スポーツを習慣にして、さらに健康を手にしようとする。

じつは人生論の本を読んで人生の意味などを
探ってみたり宗教を勉強してみたりすることも、
よりよい生活や、心地よい生活を手に入れたいという
動機が少なくない。

つまりは、いまよりいい生活をする、
現在より向上することを求めて努力している。
あるいは現在抱えている問題や困難を
軽減したり乗り越えようとしている。

このような姿勢に何らかの苦言を呈しようという意図は
ない。ただ、まったく違った角度から、この人生や
この世を照らしだす考え方があり、
生き方がある、ということを記してみたい。

+++++++++++++++++++++++++

ふだん生活している現在のレベルを、
当たり前として捉えているということは、
この地点がゼロのベースにあるということである。

ところがこの現在のレベルは、はたしてゼロなのか
ということを考えてみると、
じつはそれはゼロなんぞというものではない、
ということが明らかになる。

先日、繁華街にあるメイド喫茶で火災があって
死者が出た。大雨で堤防が決壊し、家ごと流されて
行方不明になった人々がいた。
1年前には、紅葉狩りに出かけて、休火山の噴火に
遭遇して多数の死者が出た。

これらの災難に遭われた方々は、その寸前まで
自分に災難が及ぶとは予知していたとは思われない。
行楽の後には家に帰り、暖かな夕食をとり、くつろいで、
布団にもぐるのだと思っていたと断言できる。

この落差は何だろう。
どこからこのギャップはやってくるのだろう。
考察を加えていくと、けっきょく結論付けられるのは、
ボクたちの生活は板子一枚下は、地獄だということだ。
それを忘れて、板一枚の上で宴をやっていたのだと。

ある日、健康診断の結果が重病の存在を伝えて、
余命3ヶ月なんてことも、可能性はゼロではない。
この身の健康も、危ういバランスの上に
成り立っていただけかもしれないということである。

このようなことから、現在のボクたちの生活は、
ゼロでなく、プラスを頂いているということに帰結する。
生きているだけで丸儲けという言葉があるが、
言い得て妙だ。

どんな生でも死ぬよりはいいかもしれないというのは、
死の淵にいざ立った経験があると、
実感されることではないだろうか。

そんな例を一つ紹介したい。
ロシアの文豪ドストエフスキーの体験だ。
ドストエフスキーは若い頃に、秘密結社に参加し、
専制体制を敷いていた当時の体制を覆そうと
活動していた。
その結社のメンバーはやがて捉えられ、8ヶ月の拘留ののち、
銃殺刑を宣告される。
ドストエフスキーもこの刑に服することになる。
広場に引き連れてこられ、並んだ杭にひとりづつ縛られ、
彼らの前には銃を持った兵士が並んで銃を構える。
まさに撃ての合図が鳴る瞬間に、馬が駆けつけて、
皇帝の恩赦の命が伝えられる。

このとき囚人のなかには気が狂ったものもいたと記されている。
ドストエフスキーも強い動揺に見舞われたといわれている。
てんかんの持病が出始めたとも聞いたことがある。
このあと厳しいシベリアへの流刑がまっているのだが、
死の淵まで歩いていって、ぎりぎりのところで生に生還する気分は、どのようなものだろう。

ボクは不遜にも想像してしまうのだが、
死刑が執行されるまでのその時間は、
ふだん当たり前の生活と思っていた家族との語らいや
仕事をしている日々の姿が、輝いていただろうと思う。
もう手にはすることができないそれらの平凡な日々が、
(退屈でもある日々が)輝いていただろうと思う。

生きているだけで丸儲けということに気づくとき、
ボクたちの正常な状態は、死であったのだという、
基準の転換が起きる。死んでいて当たり前。
これが普通。
だからいまの生活は、黄金の日々であるはずだ。
まさに生を受く、という状態にある。

+++++++++++++++++++++++++

ではなぜボクたちは、退屈ともいえるこの日常を
疎んじて、刺激を求めてふらふらとさ迷うのだろうか
という疑問に行き着く。
そこにはどんな迷いがあるのだろうか。

(2015-10-16 SNS日記より)

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冬がやってくると・・・ [身辺雑記]

今朝目ざめると、窓ガラスに何やら絵のようなもの。
みると、へのへのもへじ。
それに何か文字が書かれている。

への1.jpg

朝の窓ガラスに曇りがついていると、
はやく起きた妻がイタズラ描きをする。
どうしてそんなことをするのか訊いたことがあった。
しかし本人は、よくわからないのだそうだ。

窓が曇る季節の到来を知らせる、
年中行事のようなもの。
その初日を迎えた。

下のガラスには、何が書いてあるのだろう。
透かしてみると、今日は寒いわ、とある。
そのまんまだ。

への2.jpg

窓の外は冬の景色さながらになっている。
いよいよ信州は冬の到来なのだ。

への3.jpg

(2015-10-15 SNS日記より)

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