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『迷える者の禅修行』を読む (自分のためのメモ) [禅]

ドイツ人禅僧のネルケ無方さんの『迷える者の禅修行』を読んだ。

副題の、「ドイツ人住職が見た日本仏教」とあるとおり、
日本の禅仏教にあこがれて、日本の修行道場で坐禅修行を続けながら、
やがて安養寺の住職となるまでの、苦しい過程が綴られている。

禅寺で行われる修行過程などを読むことは、
日常とは異なる別世界を垣間見るようで、
それはそれで面白いのではあるが本質ではないだろう。

なぜ修行するのか、そしてなぜ生きるのかという根源的な問いに対して、
答えを求め、どういう道を辿り、どのような境地に到達したのか、
そこに興味がある。

本の最後の最後にようやくその答えというも言うべき事柄が語られている。

『「人生の問題を解決せねば」と言いながら、
問題の根源が自分にあることにまったく気づきません。
その根源のはっきりしない問題を「私の修行」で解決しようともがく。
修行にこの「私」を持ち込むことによって、
問題がますます複雑になってしまいます。    p.236』

このようになりがちなのは、欧米人という頭でっかちの思考がある
という趣旨のことを述べているが、それは欧米人に限らない。
日本人も伝統的な東洋的思考をしているわけではなく、
ほぼ欧米人と同じ思考回路を持つようになっていると思われる。

問題だ、問題だと騒いでいるこの自分と言うもの、
その中でめぐっている思考回路に、
問題の本質が潜んでいるということに気づくまでは、
突破できない壁に頭を打ち続けるしか方法がない。

しかしこの迷路にそれこそ頭を突っ込み苦しむ姿は
とても好ましい(とすこし上から目線で言ってしまう)。
日本の仏教の中に、このような真っ直ぐな修行をする人が
どれだけいるのだろうか。
禅仏教はすでにアメリカや欧州へ伝播する時代となったと言われている。

『若かりし頃の私は、人生問題の解決を坐禅に求めていました。
坐禅と出会ってから、二十七年が過ぎましたが、
「坐禅を噛み締める」ことによって、その解決が得られたかどうか、
そこが知りたいという方もおられるでしょう。
実は、「人生の意味とは?」という問いに対する答えを
坐禅が導いてくれた、といえば嘘になります。
「いや、坐禅そのものが解決であった」というのも、
ちょっと違います。そうではなくて、座禅によって、
私の求める方向性が、ガラッと変わったのです。
             p.250』

そして最後にフランクルの言葉を引用している。
それはこうである。
『私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、
はじめから間違っているのです。
つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。
人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。
  ヴィクトール・フランクル
  「それでも人生にイエスという」  より』

人生に生きる意味があるか?
この問いは間違っているとフランクルは言う。
ネルケ住職も、この問いの方向が違っていると言う。
ボクは少し皮肉っぽく、その問いは
生まれる前にすべきだねと言いたい気分。
すでにいのちをいただいて生きているのに、
生きるべきかどうかなんて・・・

(2015-11-03 SNS日記より)

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死んだらすべて終わり [宗教]

人生には限りがあり、いつかは生を離れ、
死ななければならない。
これは当たり前のことだが、
たいていそのことを考えないように、
または忘れるように生きている。

こんな抹香くさいことを言わなければならないのは、
この問題は避けては通れないからだ。
考えないように、または忘れるために、
宴に舞っていても、けっきょく
それも終わりになる。

人生を生きる意味はどこにあるのか、
人生の意味は何なのか、
死ねばすべて終わりじゃないか・・・

誰に問いかけても、その答えは返ってこない。
お寺に行ってお坊さんに問いかけても、
おそらく答えは返ってこない。
あるいは今の坊主は俯いてしまう。
じっさいそうであったと言う話を聞く。
いまやお寺は葬式を執り行うサービス業で、
坊主はサラリーマンに過ぎない。

若い頃よりこの疑問に取り付かれて、
やはりこの世で生きることには意味がない、
真実なのはニヒリズムの支配する世界だと思い込んで、
うつうつとくすんでいた時代が長かった。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++

ここに道元禅師の言葉がある。

「生といふときには、生よりほかになく、
滅というときには、滅のほかにものなし。
かるがゆえに生きたならば、ただこれ生。
滅きたらばこれ滅にむかいて
つかうべしといふことなかれ、
ねがふことなかれ。

       道元 『正法眼蔵』 生死の章」

長い迷路の先にたどり着いたのは、
道元が熱く述べているこの言葉だった。
この単純でありながら、深い考察の言葉。
死んだら終わりと考えて、人生を無意味と
断じてしまうのは迷いだった。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++

「死んだら終わりなのではないのですか?」
「死んだら終わりだ」
「では生きる意味は何なのでしょうか」
「お前は妄想している」
「どこが間違っているのでしょうか?」
「お前には死は無い。
 いま無い死を妄想して迷っている」

(2015-10-24 SNS日記より)

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あなたはあなたのままでいいのに [美術]

絵画教室が終了後、生徒さんから悩みを打ち明けられた。
それは予想もつかない種類の相談であった。
そんなことで悩むのかと意外な感を抱いた。
と同時にかつて、自分もそういう時代を通ったかもしれない、
とも思った。

生徒さんはボク自身の絵画サイトの水彩画や鉛筆画を毎日眺めては、
どうしても同じような絵にならないし、同じように描けないというのだ。
つまりボクのように描くことが、上達と信じきっているのだ!

ひとは人のまねをする必要はない。
むしろまねすべきではない。
(しかし模写は勉強になる)
そして、幸か不幸かまねをしても、
同じにはならないのだ。

絵画の基本的な部分を学んだら、あとは個性を発揮して
どんどん描くべきであると考えている。
いや、個性を発揮しようと思わなくていい。
自分の感性を信じて、自分にとっていい絵だと
思える地点に突き進むのがいいと思う。
その真剣な努力の道筋で、その人なりの魅力が立ち昇るものだ。
その人しか描けない世界がほのかに見えてくる。

自分もかつて迷いの頃があった。
それは、自分に似ている作家を探したのだ。
しかし自分の個性に似ている作家などいないことがよくわかった。
自分の描こうとする世界が、すでに誰かによって
成し遂げられているとするなら、自分が描く意味がなくなる。
そして誰とも似ていないということが
自分の強みなのだとわかった。
兄弟探しは、自分の美への自信のなさの現われなのだ。

それからは、自分の感性を道しるべとして、
心地よいもの、好ましいものを探る方法論を辿った。
どう転んでも自分はこの道になるというものが見えてくる。
それが自分のモチーフとなるだろう。

おそらくルノアールも、伊藤若冲も、
エゴンシーレも、自分の個性をどうこうしようとは
考えなかったにちがいない。
ただ自分が美しいと思えるものに突き進んだ。
その到達点の高さにひとは感嘆し、
新たな個性の出現を称えるのだ。

(2015-10-21 SNS日記より)

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