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弟子たちは、みな散りぢりになった [キリスト教]

イエスが近づく死を予見して、弟子たちに、
今夜あなた方はみな私のことで躓くだろうと言ったとき、
ペトロは、わたくしは断じて躓くことはありませんと言った。

今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度私のことを知らない
と言うだろうとイエスが予言めいたことを口にしたとき、
ペトロは、たとえあなたと一緒に死ななければならないとしても、
決してあなたを知らないとは言いませんと誓った。
他の弟子たちも同じように誓った。

イエスの一行がゲッセマネに着いて、
イエスは自分が向こうに行って祈っている間、
ここに据わって待つように弟子たちに言った。
そしてペトロとゼベダイの二人の子だけを連れて進んだ。

やがて、イエスは、わたしは悲しみのあまり
死ぬほどだと吐露し、ペトロたちにここで目を覚まして
ここで待つようにと言い残し、少しはなれたところで祈りをささげた。

イエスが戻ると、ペトロたちは眠っていた。
あなたたちは一時間も目ざめていることができないのか、
心ははやっていても肉体は弱いものだと言われた。

ふたたびイエスが祈りの言葉をささげた後、
戻ってみるとまた、またもや弟子たちが眠っているのを見た。

こののちイエスは逮捕され、裁判にかけられることになる。
このときには、弟子たちはみなイエスを置き去りにして逃げてしまった。
やがて裁判の結果、イエスは死に値する罪人として裁かれる。
この騒ぎの間、ペトロだけは遠巻きに様子を伺っていたようである。
しかし周囲のものがこの男はイエスとともにいた仲間だと
騒ぎ立てると、わたしは何のことかわからないと
しらを切る。けっきょく、3回イエスのことは知らないと否認する。
(この場面はバッハのマタイ受難曲のクライマックスの場面である。)

イエスがゴルゴダの丘で、磔になったとき、
それを見ていたのは母マリア、母の姉妹、クロバの妻のマリア、
ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベタイの子の母など、
イエスの行動に付き従っていた女性たちである。

磔の梁の上のイエスの目に映るのは、
教えを垂れてきた弟子たちではなく、
遠くから怯えるような眼差しの女性たち。
一緒に死ぬと誓った弟子たちはその場には、
一人もいなかった。
見捨てられて、結末が孤独の死である。

しかしながら、一筋の光を感じるのは、
同時に磔にされた盗賊のひとりの存在である。

ルカの福音書にしか記述が現れず、名前も分からないのだが、
この男は、磔になり死の苦悶の中にいながら、イエスに帰依した。
あなたがみ国に入られるとき、わたしを思い出してください、
と言ったと記述されている。
イエスは、あなたはわたくしとともに楽園にいるであろうと言葉を与えた。

この男こそいちばん近くにイエスに寄り添い、
本当の弟子となった人物といえるのではなかろうかと、
思えてならない。

(イエスの言動等は、マタイによる福音書、ルカによる福音書によった)


(2015-11-23 SNS日記より)

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アングリマーラへの説法 (自分のためのメモ) [仏教]

超多忙な日々がようやく去って、今日はいちにち
気ままに過ごしました。

アングリマーラという殺人鬼を弟子にした、
お釈迦様の話を思い起こしています。

アングリマーラは優れた能力を持つ青年でしたが、
讒言によりあらぬ疑いを掛けられ、殺人鬼となって
しまいます。

一説には100人の人間の指を首飾りにするという
願を立てて人を殺しては指を奪っていたということですが、
これは後からついた尾ひれかもしれません。

ともかく満願成就の100人目の対象者として、
お釈迦様がアングリマーラの前を通られた。

彼はお釈迦様を後ろから追いかけるのに、
不思議なことに、追いつくことができなかったそうです。

そこでアングリマーラは、お釈迦様に向かって命じます。
「止まれ!」
すると応えて、言います。
「わたしは止まっている、殺人鬼よ。
お前こそ止まるがよい。」

「お前は今歩いているのに止まっていると言い、
わたしは止まっているのに動いているというのか。」

お釈迦様は応えた。
「アングリマーラよ、わたしは止まっている。
生きとし生けるものに害する心を持っていない。
だから心は動いていない。
しかし、お前は生きものへの不殺生の自制心を
失っている。だから心は動き乱れているのだ。
動いているのはお前だ、殺人鬼よ。」

この言葉によってアングリマーラは正気に戻り、
凶器を捨て、お釈迦さまの弟子となります。

        南伝 中部経典 八十六より

なんだ、それだけのことで改心するものかと
若いころは思ってしまいましたが、
歳を重ねるごとに、こういうことはあるのではと
その真実味に打たれます。

殺人を犯していた頃のアングリマーラのこころは、
どれだけ荒んで動揺していたことだろうと思うからです。
そして100人目の満願成就のときに、お釈迦様に出会い、
お前の心は、動いていると、図星のところを突かれます。

人間は後ろめたい部分や気にしている部分を、
ズバリ突かれると、腰砕けになるものです。
(これは合気道の極意でもあるようです。)

アングリマーラのこころには、殺人を犯している己への
後悔の念が49%あり、いや俺はこのまま殺人を
犯していくのだという気持ちが51%あって、かろうじて
悪の道への意思が勝っていたと思うのです。

それが一突きで逆転してしまう。
人のこころはそんな微妙なバランスで
成り立っているように思います。

強がりを言ってもこころは本当のことをうすうすと
知っている。ただ妄想たくさんであったり、
意地を張っていたりすると、
その気持ちが行方不明になる。
で、望んでもいないことがらを、
し続けたりするのです。

余談ですが、イエスはパリサイ人や律法学者たちから、
怒りを買い憎まれる言動をおこない、
ついには磔に遭ってしまうわけです。
お釈迦様の場合は、人の心に一突きして、
相手の心を奪ってしまう。
この凄みがあります。

(2015-11-22 SNS日記より)

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地獄行き (自分のためのメモ) [浄土真宗]

親鸞聖人の言葉には、つよい決意と意味が含まれていて、
ボンヤリ生きている自分は、はっとさせられる。
いつも頭に張りついて忘れられない言葉がある。

「いずれの行もおよびがたき身なれば、
とても地獄は一定すみかぞかし
                  歎異抄第2章」

***人間はどんな修行も完璧にはやり遂げられない
  身なのだから、地獄こそわたしの住む場所です。

だれでも地獄には落ちたくない、極楽に行きたいと願う。
それを自分の住処は地獄がふさわしい、という。
自分は地獄行きは間違いないと、はっきりと理解した。
ハラが据わった。言い逃れはしない。
ジタバタしても、そんなことはお見通しなのだと、
わかっている。

いい子になろうとか、エエ格好しようとか、
そんな気持ちは微塵も無い。
地獄行き決定。すべてをお任せしよう。

地獄といえば、白隠禅師の言葉も愉快である。
檀家の人か誰かが、白隠禅師に訊いた。

名和尚といわれる白隠さんですから、
きっといずれは極楽に行かれるのでしょうね。
すると、わしは地獄へ行く、との答え。

えっ、どうしてですか。
白隠は答える。
わしは地獄へ先に行って、
皆が落ちてくるのを救ってやらねばならん。

地獄へ行こうが極楽だろうが、
そんな自分のことなど、
どうでも構わないということか。

(2015-11-18 SNS日記より)

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