SSブログ

仏教といわなくても・・・ [仏教]

ボクたちの体の重要な部分は、実は遠い星の爆発で
うまれた重い元素から成り立っている。

太陽は、水素からヘリウムへと転換する核融合反応を
エネルギー源にして、燃えている。そこには、
ヘリウム以上の重い元素は存在していない。

血液などに含まれるヘモグロビンの鉄分は、
太陽以外のところから持ってこなければ、
そもそも生命の存続が成り立たっていないはずなのだ。
(ちなみにこの鉄分の酸化還元反応をつかって、
肺で取り込んだ酸素を体中に送り届けている。
静脈と動脈のちがい)

鉄は、遠い星が燃え尽きる最後の最後に爆発するときに、
宇宙空間に撒き散らされる。そのチリを太陽の引力が
集め凝集しやがて惑星になる。惑星の元素を使って、
生命体が生まれた。

ボクはよく考える。
今朝食べるお魚は、何日か前には、北海道の沖の
海で泳いでいたもの。シシャモだったらカナダ沖かも
しれない。シシャモを食べたボクの体は、それを咀嚼して
胃で溶かし腸で栄養を吸収する。

何日か前にカナダ沖の海で泳いでいたシシャモの体を
吸収してしまった。ボクの体の一部は、間違いなく
カナダの海から由来している。

また今吸っている空気は、何日か前は、
ヨーロッパやアフリカを覆っていた風が、偏西風に乗り、
日本の長野の地にやってきているはずだ。

ボクの生きる動力源である酸素は、アフリカを
漂っていた酸素かもしれない。そうだとすれば、
草原の樹木を揺らし、アフリカ象の体をすり抜けてきた
空気を呼吸している可能性もある。
象たちと兄弟関係かもしれない。

遠い星から来た元素を使って血液を造り酸素をめぐらせ、
カナダの海のたんぱく質で筋肉を作り、
アフリカ象と同じ空気を吸って生きている。
これは誇張でもなんでもなく、清々と進行している
事実である。

この日のもとに新しいことは何一つないという
言葉があるが、そんな気分になる。
ボクたちが知ろうが知るまいが、無数の関連性が
作用してこの世界が成り立っている。

自分が生まれる何万年もむかしから、
何度も繰り返してきたのだ。
その網目のちっぽけな結び目のひとつが
この自分だったというわけだ。

2500年前に、お釈迦様は、瞑想することにより、
このような無限のつながりによって、
ものごとが成り立っていることを直覚された。

これあればかれあり、これなければかれなし。
これ生ずればかれ生じ、これが滅すればかれ滅す。

ボクたちは、ようやくその意味がわかりつつある。
科学の進歩によりいろいろな物質のやり取りや
関連性がまちがいないということになった。

お釈迦様が直覚された縁起の法が、
信仰という形を経なくとも、リアリティをもって、
理解できるようになったのだ。

(2015-10-17 SNS日記より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

生を受く、という体験 [いのち]

ふだん自分たちは、今の日常の生活を、
当たり前ととらえ、その上にいろいろな良きものを
築き上げようと努めている。
いまよりいい生活をしたいがために、
一所懸命働き、いい給料を得ようとしたり、
スポーツを習慣にして、さらに健康を手にしようとする。

じつは人生論の本を読んで人生の意味などを
探ってみたり宗教を勉強してみたりすることも、
よりよい生活や、心地よい生活を手に入れたいという
動機が少なくない。

つまりは、いまよりいい生活をする、
現在より向上することを求めて努力している。
あるいは現在抱えている問題や困難を
軽減したり乗り越えようとしている。

このような姿勢に何らかの苦言を呈しようという意図は
ない。ただ、まったく違った角度から、この人生や
この世を照らしだす考え方があり、
生き方がある、ということを記してみたい。

+++++++++++++++++++++++++

ふだん生活している現在のレベルを、
当たり前として捉えているということは、
この地点がゼロのベースにあるということである。

ところがこの現在のレベルは、はたしてゼロなのか
ということを考えてみると、
じつはそれはゼロなんぞというものではない、
ということが明らかになる。

先日、繁華街にあるメイド喫茶で火災があって
死者が出た。大雨で堤防が決壊し、家ごと流されて
行方不明になった人々がいた。
1年前には、紅葉狩りに出かけて、休火山の噴火に
遭遇して多数の死者が出た。

これらの災難に遭われた方々は、その寸前まで
自分に災難が及ぶとは予知していたとは思われない。
行楽の後には家に帰り、暖かな夕食をとり、くつろいで、
布団にもぐるのだと思っていたと断言できる。

この落差は何だろう。
どこからこのギャップはやってくるのだろう。
考察を加えていくと、けっきょく結論付けられるのは、
ボクたちの生活は板子一枚下は、地獄だということだ。
それを忘れて、板一枚の上で宴をやっていたのだと。

ある日、健康診断の結果が重病の存在を伝えて、
余命3ヶ月なんてことも、可能性はゼロではない。
この身の健康も、危ういバランスの上に
成り立っていただけかもしれないということである。

このようなことから、現在のボクたちの生活は、
ゼロでなく、プラスを頂いているということに帰結する。
生きているだけで丸儲けという言葉があるが、
言い得て妙だ。

どんな生でも死ぬよりはいいかもしれないというのは、
死の淵にいざ立った経験があると、
実感されることではないだろうか。

そんな例を一つ紹介したい。
ロシアの文豪ドストエフスキーの体験だ。
ドストエフスキーは若い頃に、秘密結社に参加し、
専制体制を敷いていた当時の体制を覆そうと
活動していた。
その結社のメンバーはやがて捉えられ、8ヶ月の拘留ののち、
銃殺刑を宣告される。
ドストエフスキーもこの刑に服することになる。
広場に引き連れてこられ、並んだ杭にひとりづつ縛られ、
彼らの前には銃を持った兵士が並んで銃を構える。
まさに撃ての合図が鳴る瞬間に、馬が駆けつけて、
皇帝の恩赦の命が伝えられる。

このとき囚人のなかには気が狂ったものもいたと記されている。
ドストエフスキーも強い動揺に見舞われたといわれている。
てんかんの持病が出始めたとも聞いたことがある。
このあと厳しいシベリアへの流刑がまっているのだが、
死の淵まで歩いていって、ぎりぎりのところで生に生還する気分は、どのようなものだろう。

ボクは不遜にも想像してしまうのだが、
死刑が執行されるまでのその時間は、
ふだん当たり前の生活と思っていた家族との語らいや
仕事をしている日々の姿が、輝いていただろうと思う。
もう手にはすることができないそれらの平凡な日々が、
(退屈でもある日々が)輝いていただろうと思う。

生きているだけで丸儲けということに気づくとき、
ボクたちの正常な状態は、死であったのだという、
基準の転換が起きる。死んでいて当たり前。
これが普通。
だからいまの生活は、黄金の日々であるはずだ。
まさに生を受く、という状態にある。

+++++++++++++++++++++++++

ではなぜボクたちは、退屈ともいえるこの日常を
疎んじて、刺激を求めてふらふらとさ迷うのだろうか
という疑問に行き着く。
そこにはどんな迷いがあるのだろうか。

(2015-10-16 SNS日記より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

冬がやってくると・・・ [身辺雑記]

今朝目ざめると、窓ガラスに何やら絵のようなもの。
みると、へのへのもへじ。
それに何か文字が書かれている。

への1.jpg

朝の窓ガラスに曇りがついていると、
はやく起きた妻がイタズラ描きをする。
どうしてそんなことをするのか訊いたことがあった。
しかし本人は、よくわからないのだそうだ。

窓が曇る季節の到来を知らせる、
年中行事のようなもの。
その初日を迎えた。

下のガラスには、何が書いてあるのだろう。
透かしてみると、今日は寒いわ、とある。
そのまんまだ。

への2.jpg

窓の外は冬の景色さながらになっている。
いよいよ信州は冬の到来なのだ。

への3.jpg

(2015-10-15 SNS日記より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。