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慈しみのこと (自分のためのメモ) [人生]

ある僧侶の方が著された本に掲載されていた話です。
法話のあと、一人の男性が相談に訪れたとのこと。
その男性は会社を経営していて大変忙しかった日常を
過ごしていたらしい。

相談とは、今は亡き母親に不幸なことをしてしまったと、
悔いているというのです。
母親は毎日お勤めのお経をあげる信心深い方だった
らしい。
ある日、母親が一度でいいから手を合わせて
お勤めをしてほしいと、息子に強く嘆願したそうです。

そのとき男性は、仕事に出かける間際で、
いまは忙しいから、落ち着いたらゆっくりと
座ることにするよ、と出かけてしまった。
しかし母親はそのあと一週間後に亡くなられたそうです。

なぜ母の望みをその時叶えてあげれなかったのかと、
悔いて悔いて仕方ないと涙を流されたということです。
母親はなにかを感じて、その日、息子に、
日頃思っていた願いを口にしたのかもしれません。

いくら後悔しても、その気持ちを伝え、受け止めてくれる
相手はもうこの世にいないので、気持ちは宙ぶらりんに
なったままです。

亡くなった人には何も伝えられないのです。
そのわだかまりはどれほどのものか。

人の気持ちというものは不思議なものですね。
亡くなるまえに、ひと言、感謝なりの言葉を伝え、
望みを叶えてあげた場合。
いっぽう、そうしなかった自分がいる場合。
何が変わるのだろうかとずっと考えます。

母親を安心させてあげた場合と、
親不孝な状態のまま死別してしまった場合とは、
いったい何が変わるのだろうかと。

ふとネアンデルタール人の墓の話を思い起こします。
シャニダール遺跡というところに、
ネアンデルタール人の墓が見つかっています。
死者の周辺ぐるりと、大量の花粉が発見されています。
つまりネアンデルタール人は死者を弔うのに花を集め、
埋め尽くして埋葬したらしいとわかっています。

原始的な人類としてややもすると下に見る傾向が、
あるかもしれません。しかし彼らは、死者を尊厳をもって
埋葬していたということを示しています。
ならば生きている間も、慈しみあって生きていたという
可能性も大きいです。母親が大事にされ、
老人が大切にされていたのかもしれません。

(2015-11-10 SNS日記より)

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今日の言葉 ~道元・普勧坐禅儀~ [禅]

じつは道元の普勧坐禅儀という書を
あまり読み込んでいない。
ただこの書にある有名な言葉がよく引用され、
その言葉がこころの隅に引っかかっていて気になる。
まあ、いい加減な読み方である。

「所以に須らく尋言逐語の解行を休すべし、
須らく回光返照の退歩を学すべし。」

「・・・というわけですから、何がなんでも、
言語のせんさくから理解しようとするのをおやめなさい。
何がなんでも外に向かって物を逐う心のはたらきの
方向をかえて、自己の正体を照らし出す坐禅修行を
すべきです。」  (玉城康四郎氏 訳)

言葉の解釈をあれこれとひねくり回して、
つじつまあわせの作業を積み重ねていくやり方は、
徒労ばかりだということを主張している。

誰がこう言った、こう解釈したということがらを
いくらたくさん収集しても、そこから何かが
立ちあがってくることはないのだということなのだろう。

所詮はそれらはひとの言葉であり、ひとつの記号で
しかない。言葉自体の中に、何かすごいものがすでに
潜んでいると思うのは、思い込みだろう。

むしろその言葉の中に、自分の体験から得た何かが
盛り込まれているのか、どうかなのであって、
それでこそ、その言葉はいのちを得たといえる。

内的な体験の裏づけの無い言葉は、
単なる器であって空疎なものだ。
このことがなかなか判らず、言葉に何かがあるはずと
推察して、それは何かと質問したり、尋ねたりする。

しかし言葉の意味は、本人の体験で肉付けされるもの。
もし、その人の体験が空疎なものであれば、
彼にいくら善意で言葉を尽くしても、ていねいに説明
しても、それは失敗に終わる。
彼は受け取れる器ではなかった事実を証明するだけだ。

まして説明が曖昧だったとか、ぼかしているとか、
矛盾しているという類の批判はあたらない。
発言者の体験内容の深みまで降りて来い、
という言うしかない。

さて道元の言葉の後半。
「回光返照の退歩を学すべし。」
これは難解な表現だが、注目するのは「退歩」という
言葉である。

ボクはこの退歩という言葉をシンプルにこう考えている。
上で述べた自分の内的体験から会得した言葉の意味、
あるいはそれを会得する行為というふうにとらえる。
それは内面に沈下していくことでしか得られない。
外に何かがあり、それを自分が獲得する類ではない。

「回光返照」という言葉はむつかしいが、
自我の方からではなくて、他から(仏の方から)、
おのずと照らし出されることによって
退歩が導かれる(内的な体験が会得される)という
意味にとらえる。

なお正法眼蔵にも、同意の言葉がある。
こちらは有名な言葉。
「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。
万法すすみて自己を修証するはさとりなり」
         正法眼蔵 現成公案 より

(2015-10-12 SNS日記より)

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迷いについての呟き (自分のためのメモ) [禅]

禅に惹かれるひとの大部分は、その悟りの
獲得に興味があるからだろう。
迷いのただなかにいる地点から、
その境地に到達したい、
そのためには何をすればいいのかを知りたい。

でもこの願いは決して満たされない。
成功裏に終わることは無いだろう。
青い鳥を探す場所には、青い鳥は居ないから。
それは土台無理な話だから。

その境地というものが、自分の外にあるという
前提でいる限り、それは自分のものにはならない。
求めるものは、いつまでも求める続けるもののままで
あり続け、自分のものとはならない。
すごく単純なことだ。
求めるという構造から、そう帰結される。

その境地とやらが、何であるのかがわからないと、
到達したのかどうかもわからない。
だから神秘体験や異常な心理状態を、
それだと思い込む。
でもそれらは持続せずすぐ変化する。
その高揚が去ってしまうと、
それは求める境地ではなかったと理解する。
そして次なる青い鳥探しに出かけるのだ。

ネルケ無方禅師は、シンプルに言う。
悟りとは、迷いの自覚なんだと。
自分が迷っていることを自覚することが悟りで、
悟りと迷いは一体にある。
迷いが無ければ、悟るべきことがらもなくなる。
悟りが無ければ、迷いの状態を照らすことはできない。

迷いが不幸で、悟りが幸福とするなら、
不幸から幸福へある日ジャンプするわけではない。
不幸なる自分の自覚が、幸福な自分の自覚になる。
不幸でありながら、幸福だとわかること。

煩悩具足の自分を深く自覚するほど、
救われている自分がわかるのだという浄土真宗の教え。
逆説的に聞こえる道理も、同様の事情だろう。


(2015-10-10 SNS日記より)

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今日の言葉 ~迷悟~ [禅]

道元禅師『正法眼蔵 現成公案』にある言葉。

「迷を大悟するは諸仏なり。
悟に大迷なるは、衆生なり。」

この意味がわかった気がした。
この道元の言葉が、さまざまな解説書があるなかで、
どのように表現され翻訳されているか、調べてみた。

+++++++++++++++++++++

1.「迷いを大悟するのは諸仏です。
悟りに大迷しているのが衆生です。」
   玉城康四郎『日本の思想2 道元集』

2.「この迷いのなかにあってそれと悟るのが仏であり、
悟りをもとめながらいつまでもこの迷いをぬけきれないのが衆生である。」
   増谷文雄『仏祖正伝の道 正法眼蔵<道元>』

3.「迷いを迷いと知るのが悟った人であり、
悟りに執着するのが悟っていない人である。」
   禅文化学院『現代訳 正法眼蔵』

4.「迷いの真の姿を見極めさとることができるのが
諸仏であり、「さとり」をいたずらにもとめて迷うのが
衆生である。」
   頼住光子『正法眼蔵入門』

5.「迷を大悟するは諸仏なりとは、迷っている自己から
真の自己へとゆくのが悟りだということで、
悟に大迷するは衆生なりとは、すでに悟っている自分を
問題にするのが迷いだということです。」
   山田史生『絶望しそうになったら、道元を読め!』

6.「迷いを転じて大悟するのは諸仏であり、
悟りに執着して迷っているのが衆生である。」
   ひろさちや『すらすら読める正法眼蔵』

7.「迷いのなかでしっかりと大悟できるのが、
悟った人間で、悟りの中で迷っているのが凡夫である。」
   ひろさちや『新訳 正法眼蔵』

8.「もしあなたが完璧にあなたの迷いに目覚めたなら、
あなたは目覚めた人の一人。
あなたがその目覚めに大いに迷っているなら、
あなたは苦しみの存在の一人。」
   ネルケ無方『道元を逆輸入する』

9.「仏といわれるあらゆる目覚めた人たちは、
自らの迷いにこそ目覚めた。
迷える衆生は、彼らが追い求めている悟りについてこそ
大いに迷っているのだ。」
   ネルケ無方『迷いは悟りの第一歩』

+++++++++++++++++++++

ここに手元にある9種の翻訳、解説を列記してみたが、
それぞれ言わんとする意味が異なると分かる。
これほどいろいろなんだと驚く。
そして意味不明なものもけっこうあるものだと気づく。
意味不明の翻訳で勉強していたら、
学ぶ人にはたまらないな。
迷いと悟りを別々のものとしてとらえているのは、
ダメだと思う。
ボクがぴったりくると感じたのは、3、9だ。

(2015-10-08 SNS日記より)

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