SSブログ

目覚め [宗教]

宗教的な心の転機として目覚めというものがあります。
キリスト教の世界では回心といったりします。
また禅では悟り体験とかといいますね。

宗教によっていろいろな表現をしますけれど、
つまるところそれらは、なにを言っているのだろう、
と考えることがあります。

大それた問題ですが、自分なりに考えると
それまでの生活を支配していた考え方や信条が、
ひっくり返ることだというふうに思います。

しかしこれだけの言葉では、よくわかりません。

ひっくり返るということが起きるためには、
元の状態があり、それを逆さにする何らかの
体験を所有しない限り、ことばの意味を成しません。
ひっくり返った世界を覗かない限り、
そうか元の生活が逆さまだったのだな
とは思わないわけです。

元の生活を規定するものはなんだろうと
考えると、それは自我を中心とした世界観、
思想なのではないかと思います。
自我中心の考え方に骨の髄まで、
染まっていたんだなという自覚です。

でも自我中心の生活だったのだなと
ふり返る視点を持たない限り、
また自我中心と表現しても、
その言葉の意味が伝わりません。

まことに厄介な話です。
したがって、この手の話は
ほとんど共感を得ることはありません。
理解されません。

ある集まりでお話させていただくことが
ありますが、それをうまく表現するすべがなく、
もどかしい思いをします。

自我中心ではない世界とはなにかといわれれば、
今生かされて生きているということに尽きるのです。
でも生かされているという意味が伝わらない。

かつては自分もそうでした。
人身受けがたし、今すでに受く(三帰依文)。
この言葉の意味がわかるのに何十年もかかりました。
いまはもうこの言葉だけでいいとさえ思います。



いよいよ今年も残すところあとわずか。
よい年をお迎えください。

(2015-12-31 SNS日記より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


くりかえされる問い [いのち]

まったく忙しい日々となってしまいました。
定例のお店主催の絵画教室があり、
おまけに公民館の絵画教室も今週は重なって、
さらに頼まれた塾の講師の仕事も週2回あり、
昼間は画材店の営業をしている・・・

つまり昼も夜も間断なく仕事に追いまくられています。
おまけに受験生のための冬季集中講座の企画が
あって、正月休みに駆り出される予定です。
スキーなどやっていられるのか・・・
という勢いとなってきました。

ところで昨晩、久しぶりに鈴木大拙の禅の本を
本棚から取り出してぱらぱらと読みました。
そこで目に留まったのは、
釈迦は形而上学的な問いにはお答えにならなかった、
という一節です。

そこに仏教の核心があると信じていますが、
普通の感覚では、それは見過ごされていることがらでは
ないでしょうか。

人生の悩みや苦しみの大きな部分は、
この形而上学的なものに分類されると思います。
わけのわからない禅問答、ちんぷんかんぷんな
答えも、このことと関連していると感じますね。
別の言い方をすると、ほとんどが無益な問い
ということになります。

死後われわれはどうなるのか?
人生の意味はあるのか?
霊魂の存在ははたしてあるのか?
この人の目が見えないのは、
なにか祟りがあったのか?
このような不幸なことがらは、
犯した罪の報いが来たのか?

この無益な問い、と切り捨ててしまっていますが
この疑問は、ときにつらいときや苦しいときに、
心に浮かんできます。
そしてわれわれの手の届きようのない
このような問いに絡め捕られて、
しだいに雁字搦めになります。

いくどなく繰り返され、苦しめられる問いです。

釈迦はこのような問いに答えなかった。
しかし後世の仏教の発展においては、
この問いに対する答えがしだいに用意されていった
と見えることもあります。
しかし元をたどると、
お釈迦さまは問いを退けられました。

その理由は何か。
死後の世界はあるのか?
どこかの誰かがその答えを用意したとすると、
つぎに、そこはどうなっているのか?
安楽なのか?
と問いは続きます。
その安楽な場所に自分は行くのか?
どのようにすればそこへ行けるのか?
・・・
問いかけは已むことはありません。

そこへあなたは確実にいけますよ、
安心してください、間違いないですよ、
と言われて、大安心しました!となるでしょうか?
その保証はどうなっていますか?
それを保証してください・・・
問いかけは、つぎつぎと先へ先へと進みます。
自分自身はいまのままで、問いだけが進みます。

その中で、己の姿が浮き彫りになってきます。
要するに、いまのまま楽にしてほしい、
このままでずっと安楽な生活を続けたい、
死んでもずっと楽に、苦しみのない生活が
続いてほしい、
いまのこの現状を手放したくない、
握りしめたものを捨てたくない、
諦めたくない・・・

そんな己の姿がぼんやりと見えてくることで、
この問いの構造が見えてきます。
自我がほしいものを握り締めている姿です。
そして満足のいく答えは、どうもありえないな・・・
というふうに気がつくのです。

(2015-12-12 SNS日記より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

言葉そのものには力はない・・・(自分のためのメモ) [思想]

久しぶりにこころの高まりを覚えながら本を読んでいます。
福島智さんという東大教授の先生が著された『ぼくの命は言葉とともに
ある』という書です。福島さんは、9歳で失明、18歳で聴力を失い、
盲聾者として生活をされています。

書の言葉のあちこちに啓発を受けたり、新しい知見を得たりしていますが、
取り上げてみたいのは、表題にある「言葉そのものには力はない」と
書かれている文章です。

福島さんは盲聾者のため周囲の会話の声とか、
身振りやしぐさが示しているボディメッセージを受け取ることはできません。
点字板から読み取る言葉だけが、唯一のコミュニケーションの通路です。
そうであるがゆえに、言葉自体には力はないのだと言われます。

たとえば「愛している」という言葉が点字で伝えられても、
その言葉自体には愛はない。意味がないだけでなく、
力もないというのです。ちょうど真空の虚空のなかに、
ポッと「愛している」という記号が浮かんでいる、
そんなイメージだといいます。

誰が誰に対して、どんな状況で真剣に言っているのか、
ふざけているのか、その言葉の周辺の事情が見えない限り、
意味が伝わらない。

さらに、意味がわかったとしてもそれだけでは力を持ち得ないと言われます。
愛しているという言葉に相応した具体的な行動が伴っていなければ、
その言葉に力はないということです。
愛しているといいながら、不実な態度で居続ける人であるならば、
その言葉には人を動かす力はなく、少しも愛されているとは感じないし、
影響を受けることも無いということでしょう。

したがって言葉は、意味と、行動という二重構造になっているのだ
と福島さんは書かれています。

ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟の一節を
引用されています。
ある貴婦人が長老に悩みを打ち明けます。
自分は人類愛は強いが、来世というものを信じることはできない、
何によって証明できるのでしょう、という内容です。
対して長老は、こう答えます。
「実行的な愛を積むことによってです。
自分の身近な人たちを、あくことなく、行動によって
愛するように努めてごらんなさい。・・・
実行的な愛は、空想の愛にくらべて、こわくなるほど
峻烈なものですよ。」

この引用のあとに福島さんはこのように書かれています。

『つまり、人間は博愛主義者にはすぐなれるのです。
「全人類のために」という言葉は誰でも言うことができます。
でもすぐそばにいる人の困っていることに対しては、
案外冷淡になるのです。あるいは同じ屋根の下に
暮らしていても、なかなか愛し合えないことがあります。
だからこそ、イエスは「汝の隣人を愛せ」と言ったのかも
しれませんそれが実行の難しいことだからです。』
                    p.98

記号でしかない愛という言葉にいのちを与え、
人を動かす力を持つようにするためには、
それにふさわしい行動を伴わなければならない、
・・・これは実に難しいことです。

ボクたちはえてして、きれいな概念、きれいな言葉を、
自分の身にまとい、それを自分が実行できており、
その言葉が自分であると錯覚し、自分は優れた人間、
善人になったつもりでいることがあります。

しかし、突かれてみればその実態はじつに醜いもの。
そのことを鋭く自覚した人は、自分は悪人で、
どうしようもない人間、地獄行きは必定だと理解します。
ついでに言えば、これが宗教への入り口ともなると考えています。

(2015-12-05 SNS日記より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。