SSブログ

生きる意味 その2 (自分のためのメモ) [人生]

前メモに書いたことがらは、通常の意味で、
わかりにくいと思う。
そこで補足した内容を、再び書いてみたい。
(ますますわかりにくいと指摘される可能性もある。)

率直な表現をすれば、人生の意味について云々することは、
たいへんおこがましいという感覚を持っている。
正直、そんな大それたことを言葉にするのは恥ずかしい。

自分はそんな立場に無い。
そんなことがらは(キリスト教的に言うならば)
神様に任せたい。それは神様のアイテムで、
自分があれこれを言うような領域のことがらではない。

それなのに、若い頃はそれを真剣に考え、
かつ悩んでさえいた。自分は審判を下すがごとく、
恐ろしく立派な立場にいると錯覚して。

この錯覚とは、ひと言でいえば、
さまざまな縁によって生かされているに過ぎない
小さな存在が、その生かしめている縁の意味を
考えるという、主客転倒、妄想夢想のねじれた
ことがらから生まれている。

養われている幼い子供が、この家庭の家計や
存在する意義について、あれこれと申し立てを
しているようなものだ。

人生の意味とは何でしょうか、と問う者がいたら、
その高慢で錯覚に満ちた考えを、へし折って
奪ってしまいたい。
(若い頃、そのような師に出会えたらなあ・・・
それが、とても残念だ。)

(2016-03-26 SNS日記より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

生きる意味への問い (自分のためのメモ) [人生]

長い間(ほんとうに長い時間)、生きる意味を求める旅は
続いた。生きる意味を語る人はいないものか、
本当のことが書かれた書はないものかと。

その答えは、あるいはもともとないのかもしれない。
シジフォスの神話のように、生きることになんらの意味はなく、
ただ労苦の時間が延々と続くだけなのかもしれない。

そんな苦しい問いの時間が長かった。
しかし、いまはその問いに心揺れる心持ちは、
まったくなくなっている。
その問いは正しくない、と判ったから。

なにが間違っていたのか。

生きる意味をわれに与えよ、という要求が間違っていた。
答えを要求するわれとは、いったい何者なのか。
そのわれに額づいて答える必要があるのか。
われはそれほど、この世の中心に鎮座する
いと貴き者なのだろうか。

これは自分という存在に関する錯覚である。
その点に尽きている。
生きる意味を問うような者ではなかった
という自覚がその答えだ。
これほど確かなことは無い。


(2016-03-25 SNS日記より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

死生観のない今の時代 (自分のためのメモ) [日常]

海恵さんの著書から引用。
「現代の教育は健康に生きること、より長く生き延びること、
病気にならぬこと、病気になったらどうやって回復をはかるか、
老や死をどうやってなるべく避けるか、等々のことは教えます。
それは個々の人間の独立性・実在性を保つことほど最も大切なこと
とする前提に立っています。
そこから個人としての生を充実させること、
生命を長く保つことこそが幸せなことである、
という考えが身につくことになります。」
      海恵宏樹著『仏の智慧に生きる』 p.60

いつのころからかTV番組やCMにおいて、健康、若さ、長寿命が
主要テーマになってきた。海恵さんの言う現代の幸福論からの当然の帰結である。
健康で若くいるためにさまざまな商品が宣伝され売られ、
企業業績は伸びているわけである。
そのようなTV番組が、視聴率を獲得するわけだ。

しかしよく考えてみればわかるように、いずれ何らかの形で
この幸福の追求は、終点を迎える。年齢を重ねて、健康は失われ、
あるいは病気になり、体は衰えて、その最期は死が待っている。
この幸福論とは、健康なものたちのためのもので
期間限定のものだったとわかる。

このような幸福論に立っている限り、
最後は不幸で終わるという帰結が待っているわけで、
ハッピーエンドのない哲学、生き方であるとわかる。
その結末を見ないように、考えないように、
毛嫌いして生きている。老化、病気、死を避けて、
幸福を追求する。

ボクたちは無自覚にこの幸福論を受け入れて生きている。
したがって、ボクたちの最終段階はみな不幸だ。
遅かれ早かれそうなってしまう。
これは間違いない結論である。

なんという貧しい幸福論なのだろう。
すべての人が最後は不幸の中で人生を終えるとは。
老人たちが元気でいいね、いい社会だね、とか言うけれど、
それは見たくないものを前にして
最後の足掻きをしている抵抗の姿のようにも見える。

ふたたび海恵さんの著書から。
「・・・しかるに、現実は自分の望みとは無関係に年がいき皺がより、
髪が白くなり頭が禿げてまいります。
皆さんもだいぶそんな方がおられますが、
そのどなたも、「わたしは60なら60歳になったら、
この程度に髪が白くなり、この程度に頭が禿げ、
この程度に皺がより、この程度に歯が抜け、
この程度に記憶力が減退し、
この程度に非力になってやろう、あるいは、
なってみたい」と望まれてそうなった人はおられますか?
もしおられたら手を挙げていただきたいものですが、
多分、いや絶対におられないと思います。
むしろ、反対に、誰もみずから望まないのにそうなった、
というのが本当でしょうね。」
      同上書 p.82

仏教の教えるところは、生ばかりでなく、
老病死を含めたいのちの実相を見つめよ、
ということだ。生きて死に、また生まれて死に、
といういのちの姿のなかに、
おのれがすっぽりと包まれているのだという実相を見つめよと。


(2016-03-19 SNS日記より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。