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「どうでもよいのです」 (自分のためのメモ) [浄土真宗]

親鸞聖人の言葉を伝えるとされている歎異抄。
この中で第二条が、ボクはいちばん気になる。
解説書を見るときにも、この第二条がどのように
解釈され解説されているのか、真っ先に読む。

「念仏がほんとうに浄土に生まれる道なのか、
それとも地獄へおちる行いなのか、わたしは知らない。
そのようなことはわたしにとってはどうでもよいのです。」
    歎異抄 五木寛之 私訳本より

これは京都にいる親鸞のところへはるばる関東から
やってきた信徒たちが、浄土真宗の信仰の要諦を
訊いたときに、親鸞がこたえた言葉とされている。

いちおう念のためだが、浄土真宗は念仏を称えることで
誰でも救われるのだという教えである。
それがその開祖である親鸞が、念仏によって
浄土へ行けるのか、それとも地獄へ落ちるのか、
そんなことは知らない、とにべも無く言う。

この矛盾に満ちた言葉をどう受け取るべきなのか、
さぞかし言われた信徒たちも面食らったことだろうと
想像される。

歎異抄の解説書には、この部分に関して、
いろいろな言い方がされているのだが、
ボクは感覚的にあまりしっくりこなかった。

上の訳文は、五木寛之さんによるもので、
この解釈がボクは好きだし、感覚的にはぴったりくる。

じつは原文には、「そのようなことはわたしにとって
どうでもよい」という文章は無い。
しかし五木さんが補った文章が、ことの本質を
ズバリ言い当てているように思う。

信徒たちの心のうちには、このような疑問が
渦巻いていたのではないだろうか、
念仏というスーパー免罪符のようなものを手に
入れることで、地獄に落ちなくてすみますか?
念仏により救われますか?

つまり何らかの自分の努力や研鑽を積むことで、
救いはやってくるのでしょうか?
キリストの復活を信ずることで
天国にいけますか?
生贄をささげることで救われますか?
お金を寄付することで救われますか?
善人になれますか?

ぜんぶ同じことなのだ。
おなじ構造の質問なのだ。
なにか自分が行いをすることで、
救われるでしょうか?

わかりやすく言ってしまえば、
これは神と取引をしているだけなのだ。

何ごとか善いとされていることを行えば、救いをあげよう。
何らかの対価を支払えば、救いが貰えるだろう。
いわゆる免罪符を買う行為、売買そのものなのだ。

救われないならば、念仏などしない。
生贄も寄付も無駄だ。
そう言っているのも同じことになる。
傲慢な自我の呟き、神と対等な立場で
ものを言っている呟きが聞こえてくる。
(その自分とはいかほどのものなのか)

親鸞は、念仏はそんな道具では無いぞ、
信仰の核心から遠く離れた訊き方だぞと
怒ったのであろう。

念仏が役に立つか立たないか、
そんなこと知ったことか。
そんなことを聞くのならば、お前たちの
念仏とやらを奪ってやろう・・・

念仏を浄土に行く道具にするとかしないとか、
そんな議論はどうでもよい。
所詮、その頭の中には救いは生まれない。
そんなお叱りの声が聞こえてくる気がする。

しみじみと救いが信じられるとき、
イエスによる救いが信じられてくるとき、
それが救いであると思う。
救われても救われなくても、自分にはどちらでもいい、
そう思えるときが救いであると思う。
言葉として矛盾しているのだが、
自分を運んで救いを取ってくるのではない、
と言うことなのだが・・・

(2016-04-03 SNS日記より)

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出口無し (自分のためのメモ) [宗教]

「煩悩をなくそう、いや、なくなるはずだとする道徳の道は、
人間に対する理解が甘いといわなければなりません。
それは自分の体を持ち上げようとするようなもので、
人間に不可能を強いることではないでしょうか。」

    竹下哲『いのちに出会う旅』より

ここに述べられたことが、道徳と宗教を分かつ分岐点
になっているように思える。

道徳は、善というものを想定し、その善なるものに
近づこうと努力する。この前提になっているのは、
善とは何かが自分はわかっているという思いと、
自分の力で善に近づき、善になりうるという思いだ。

煩悩という側面から言うならば、自らの力で煩悩は
克服できると信じているということだ。
竹下さんは、それは人間には不可能、
きっぱりとノーだという。

こんなことが起きてくる。
煩悩を克服できたという思いが、また新たな煩悩を生み出す。
自分はそれを達成したという自認の気持ちが、
いまだ達成していない(哀れな)人々への差別意識を生む。
驕りと差別を生む元となるのだ。

これは禅でいう悟りについても同様だ。
悟ったという自認の気持ちが高慢を生み、
その人を天狗にしてしまう。
そして野孤禅に堕していくのだ。
若き白隠禅師も悟ったと鼻高々になってしまったが、
やがて正受老人に嫌というほど鼻をへし折られる。

自分の努力で、自分がえらくなった、
オレはこんなに努力してすばらしい人間になった、
という思いが、異臭を放つのである。
鼻持ちならない人物、いわゆる臭みのある人物となる。
口には美しい言葉を語るが、
こころの中は高慢と差別感に満ちている。

その根本は、自分の認識と努力を頼んでいる
という点にある。人間の認識と努力など
たかが知れているのに、
それを絶対だと自ら誇っている思いが臭うのだ。

少しはましになったかなという思いは、
自慢していいかなといっているに等しい。
こう考えていくと、自力の努力には出口が無い。
前進したという思いが、後退していることでもある。
ましになったのか、悪くなったのかわからない。
まさに助けてくれ、と叫ぶところだ。

親鸞聖人は若くしてこの絶望に陥ったと思われる。
いや己の欺瞞のこころに気づいてしまったのだ。
もはや救いなしの状況にいることが、
誤魔化しようもなくわかってしまった。
そして高野山を下山したと言われている。

(2016-04-02 SNS日記より)

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人は自分の力だけで・・・ (自分のためもメモ) [人生]

「人は自分の力だけで生きていると思って、
いばっているものです。」
 竹下哲『いのちに出会う旅』

また自分の力でなんでも出来てしまうと、
思っているフシもある。

衣食が足りて、あとは自分の生きがいだの、
ここちよい言葉や考え方を仕込んでいる。

キーワードは、ここちよさ。
快感、いやしなどだ。

こんなことをしているうちに
人生の真実がどんどんと見えなくなってくる。

自分の体の心臓や肺や腸なども、
「自分の」臓器であると思っている。

ほんとうはまるで逆なのだが・・・

心臓や肺や腸が、支えてくれているのが
自分と呼んでいるあいまいなものなのだ。
自分の力で、内臓を作り人体を作ったのだろうか。

「あの世」への過度の依存も、
この世のここちよさを、死んでも放したくないという
欲だろう。

死後のことまであれこれと要求を突きつけるのだ。
ここに極まれり。

(2016-03-31 SNS日記より)

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