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与えられていることを実感できない愚 (自分のためのメモ) [宗教]

あるひとと昼間会話したことがらを思い出して、
寝る前に布団のなかで、つらつら考えた。

ボクたちはわがままで、なおかつ恩知らずなので、
与えられていることへの感謝の気持ちを
ほとんど持つことができない。

暖かな布団に包まれて、無事に就寝できるのに、
そのことの恵みを思い起こすことは、まったくない。

そのくらい、強欲でガリガリ亡者なのだと思う。
これはほとんど誰でもそうなのであるけれど、
人のことを言いつのってもしかたない。

いま暖かな布団に包まれているけれど、
この布団が剥がれたら、寒いだろうな。

いま息をしているけれど、急に誰かに口を塞がれたら、
苦しいだろうな。

心筋梗塞でとつぜん胸が苦しくなって、
もがき苦しむことになったらつらいな。

水の中に首を突っ込むようなことになったら、
息苦しくてもがくだろうな。

バスに乗ってスキーツアーに行って、寝ている間に
車体に押しつぶされたら苦しいだろうな。

誰かに憎まれて包丁で腹や胸を刺されたら、
さぞ痛いだろうな。

こんな想像は勝手に作ったものではない。
夜中に津波に押し流されてしまった人たち、
とつぜんの発病で病院に担ぎ込まれる人たち、
交通事故にあって亡くなった方、
事件に巻き込まれて怪我をされた人たち、
これは日々新聞の紙面を騒がしているできごとだ。

いまこうして生きていられるのは、「たまたま」で、
自分の努力の賜物であるとは言えない。
自分がどんな思いでいようが、それとは関係なく、
事態は襲ってくるのだから、自分の手柄とは言えない。
誇るものはなにもない。

ただただ、波間に揺られ天候に翻弄されている
ちっぽけな小舟みたいなもので、
どこへ流されていくやらそんな予想もつかない。
ひとたび海の時化にあえば、あっけなく沈んでしまう。

周囲で起きているできごとは、他人事なので、
痛痒も感じないのだけれど、自分の身に起きれば、
大騒ぎするのは目に見えている。

しかし他人事で見ていられるのは、
たまたま自分の身に起きなかったから。
ああ、よかった、自分でなくて・・・

そして想像はさらに続く。
誰かに首を絞められて死ぬ思いをした。
でもさいわい逃れることが出来た。
ああ、よかった!

水に溺れそうになって死ぬ苦しみを味わった。
でも幸運にも水から浮き上がることが出来た。
ああ、よかった!

正面衝突しそうになって、あやうく難を逃れ
回避できた。
ああ、よかった!

こんなふうに苦難や災害にあえば苦しみ悩むのに、
いまはそうでない。
ああ、よかった!

ボクは思う。
この「ああ、よかった!」という瞬間瞬間が、
いまずっと、絶えることなく与えられている。
休みなく祝福された恵みなのだなと。
恩知らずのボクたちは、いつも
ああ、よかった!という気持ちを忘れ、
いつも当たり前ですごしているのだなと。

(2016-04-14 SNS日記より)

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悟りについて (自分のためのメモ) [禅]

ひとから悟りとは何なのですかと問われることがある。
ずばり、あなたは悟ったのですかと訊かれることもある。

悟りを言葉で説明するのは難しいです、と答える。
それに自分は悟りなんか得ていないし。

でも悟りにあこがれる気持ちはよくわかる。
若い頃よりその悟りに憧れ、禅の書などを
あれこれと読み、その心境の秘密を探ろうとしてきた。

ここに良寛さんの文章がある。
ちょっと長いが引用してみる。

「もし人が自分の力で悟り終われば、
釈迦は何も述べる必要がない。
そこで執着から離れることのできる人は、
仏教の中心の意味を理解し、
すぐに悟りうる人になる。
しかし執着から逃れられない人は、
ことさら執着にしばられて自由が奪われ、
経文の言葉にこだわりその言葉が
道に遠いか近いかを勝ってにきめ、
さらには他の人の解説書に没頭して、
日夜心をすりへらしている。
悟りを得ようとすれば、
かえってその悟りにとらわれて迷い、
迷いをよく理解すれば、
迷いはかえって悟りになる。」

 良寛 『草堂集』 七九

これはとっても明快な説明だ。
悟りへの執着にとらわれてしまうことへの警告である。
悟りを強く求めるほど、迷いになるよと言っている。
その迷っている自分のこころの状態が、
すとんと自覚できたときに悟ったと言われる。

おなじことがらを、道元禅師も簡潔な詩的言葉で
述べている。

「迷を大悟するは諸仏なり、
悟に大迷なるは衆生なり。
(迷いを迷いと知るのが悟った人であり、
悟りに執するのが悟っていない人である。)」

  道元 『正法眼蔵』 現成公案

ドイツ人僧侶のネルケ無方さんも、
こんなことを書いておられる。

「松陰の 暗きは月の 光かな」
これは道元禅師のものではなくて、浄土真宗で
よく詠まれる句だそうですが、迷いと悟りの関係を
まさによく表現しています。
松陰、それはわたしの暗い部分でしょう。
月という悟りに照らされてこそ、
この陰が見えてくるのです。
月が明るくないときは、
自分の欠点もぼんやりしてしまいますが、
悟れば悟るほど、自からの迷いがはっきりしてきます。

 ネルケ無方 『読むだけ禅修業』

悟りの量が増えるほど、迷いの量が減り、
理想の修行が成し遂げられる、
と言うのではないと否定されている。
悟りと迷いは、正反対の概念ではないよ、
ということだ。

迷いが深いほど悟りも明快であるという
悟りと迷いはセットになっていると言うことである。

このことは有名な親鸞さんの言葉、

「善人なおもつて往生をとぐ、
いはんや悪人をや」

の真意とぴったりだ。
おのれの悪人ぶりを深く自覚すればするほど救われる。
自分を善人であると自負する者ですら
(迷いのない人間だと誇るものですら)
最終的には救われているのだから。

この逆説的な関係に執着すると、
これがまた迷いのもとなのであるけれどね・・・

良寛さんの言葉にこんなものがあり、
これは実に平易な言葉だ。
しかし易しくはない。

「たとえ、万巻の書を読んだとしても、
悟りにつながるひとつの言葉を保つことに
かなうものはない。
では悟りに至る言葉とは何かと尋ねられたら、
ありのままに自分自身の心を知ることだと
答えたい。」

  良寛 『全詩集』 四三六

(2016-04-08 SNS日記より)

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仏教詩人の語った言葉 (自分のためのメモ) [浄土真宗]

仏教詩人というジャンルが、確立されているのか、
わからないが、おもに他力本願、つまり念仏道の境地から
詩を書かれる方は多い。
(ちなみに禅のお坊さんが、詩や文学を通じて、
境地を表現するという例は、近年あまり聞かない。)

詩人たちの言葉から、到達した境地をうかがい
知ることができたり、そうなのかと教えていただくことも
ある。

浅田正作さんのことは、ほとんど詳しいことは
知らないのだが、ある書に詩が引用されていて、
とても惹かれた。

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 回心
       浅田正作

自分が可愛い
ただそれだけのことで
生きていた

それが 深い悲しみとなったとき
ちがった世界が
ひらけて来た

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前半の自分が可愛いだけの世界は、
畢竟、地獄へ通じる道であるだろうと思う。

それがあるとき、おのれの浅ましい姿が
照らし出され、その姿に悲しみと絶望を覚えるとき、
さらに深いほんとうのことがらが見えてくる。

深い悲しみを覚えるとき、それは自分可愛いという
世界の延長線上にある気持ちではない。
その気持ちがどこからやってくるのか・・・
それが了解されてくる。


榎本栄一さんの詩から。

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だいじな地獄
              榎本栄一

地獄へおちるたび
私のこころの眼が
すこしひらくようで
ほんに地獄は
私の だいじなところ

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自分にとって地獄は一定すみかである、
という親鸞さんの言葉を髣髴とさせる。

地獄がなければ救いは生まれないので、
とてもだいじなことなのだという。
落ちるたびに、自分の至らなさやさもしさや
浅ましさがわかってくる。
と同時にまことに不思議なことだが、
救いが実行されていることがより確信されてくる。

(2016-04-07 SNS日記より)

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