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今日の言葉 ~信じること~ [浄土真宗]

「・・・だから人間が仏や神を信じるという態度は
おかしいのです。そしてこのような形で信ずれば、
必ず裏切りにつながります。

ひろさちや著『人は死んでもまた会える』より」

人間は、神を信じるとか信じれないとか言う。
そして信じない人には救いは無く、
その人は地獄に落ちると恐れる。

しかしさちやさんは、その態度はおかしいという。
それじゃ人間が主で、神が従だと。

確かにそうである。
人間が信じるとか信じないという態度を決めることで、
神が救いの手を出したり出さなかったりする。
神の手は、人間の信仰の有無で出たり引っ込んだりする。
神の自由は無いのだろうかということになる。

また信じる信じないの態度如何で、
救いというご利益が、出たり入ったりするのであれば、
ご利益のため、人間が神を利用しているだけだ。
人間のご都合で、神の出番が有ったり無かったりする。
はたして神は人間に使われているご利益マシンなのか。
神はそんな軽薄に利用されてしまう存在なのか。

だから人間の方で、信じますとか信じませんとか
言っていることは、すごくオカシイ。
そんな尊大な態度でいいのかということ、
そして、神の行為を左右するほど、
そんなに立派なんですかアナタは?、ということになる。

いやそんな大それたことは考えていないと、
言ったとしても、要するに信じるからには、
必ず救ってくださいねと神に命令しているのと同じだ。
だから信仰していても、ご利益が無ければ、
(無いと信じられなくなったら)信仰は捨てられてしまう。
いつまでもグラグラして、いろんな神を遍歴していくことになる。

では信じるとは何なのか。
信仰とは何なのか。

親鸞さんの言葉をまとめた歎異抄に、
こんな言葉が出てくる。

「この親鸞は、一人の弟子も持っていません。
なぜなら、わたしのはからいで他の人に
念仏させるなら、その人はわたしの弟子とも
いえるのでしょうが、阿弥陀仏のはたらきに
うながされて念仏する人を、わたしの弟子などと
いうのは、まことに途方もないことだからです。
・・・
如来からいただいた信心を、
まるで自分が与えたモノであるかのように、
取り返そうとでもいうのでしょうか。  第6条より」

人間が信じる信じないと言明するよりも、
(はるか前の段階ですでに)
信じられるものだと分かること、
そのことを自覚し分からせてもらうこと。
信心は向こうから与えられるもの、
救われていることのお知らせ。

(2015-10-06 SNS日記より)

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今日の言葉 ~ご縁~ [浄土真宗]

ご縁をいただいて生きていると浄土真宗の方はいわれる。
言葉はやさしくわかりやすいと思いがちだが、
そんなに単純ではない。
天地がひっくり返るほどの転換が秘められて、
その境地に至っている。

小川一乗さんの著書から。
「・・・これが、生かされているという仏教の基本的な考え方です。
私がいて、ご恩をいただくのではありません。
ご恩が私となってくださっているのです。
そのご恩をすべて取り除いたら、この私は空であり、ゼロなのです。
・・・
腹を立てるご縁が私となってくださったから、私に腹立ちが生まれます。
私が腹を立てているのではありません。
ご縁が腹を立てているのですから、ほっといたらいいのです。
もっとはっきりいいますと、それを信心の人は、
私が腹を立てているのではない、如来さまが腹を立ててくださっている。
私が腹を立てているいるのではありません。
こんな私でも腹を立てるご縁が私になってくれなかったら、腹が立ちません。
腹を立てるご縁が私となってくださったから、腹が立つのです。
だから腹が立っても、何も遠慮することはありません。

仏教に学ぶいのちの尊さ より」

よく考えてみたら、自我が中心にいるのではなかった、
という気づきからこのような自覚は生まれる。
自我が中心にいて世の中動いていると思ったら、
そうではなかった。
裏には自我すら生み出してくれている大いなる存在が
あった。
自我は周辺のちっぽけなものだった。
しかもその自我は、つねに変転していて
常なるものではなかった。
これからも変わり続ける存在だとわかった。
自我は、スクリーンに映し出された幻燈のような
影の存在でしかなかった。

わかってしまえば、とても単純な話なのだが。
こんな明白なことはないのだが。

(2015-10-02 SNS日記より)

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今日の言葉 ~幸せについて~ [人生]

『・・・しかしここに原理的な困難さがあります。
それはどういうことかというと、幸せになりたいという人は、
幸せを求める願望をもっていても、幸せそのものについて
知らないからです。
幸せを求める。
これは自分が不幸であることを、ものがたっている
にすぎないからです。
これでは幸せに出会うことはできません。
ひょっとすると、幸せのど真ん中にいても、
幸せがどんなものか知らなければ、
すれ違いに終わるだけです。

渡邉晃純著
 「いったい私はどうなりたいのだろう」より』

まちがいなく人は幸せを求めている。
不幸せを自ら求める人はおそらくいない。
幸せを求める人が多いということは、
いまはその時ではない(幸せではない)
人が多いということである。

ならばどうなれば幸せといえるのか。
幸せとは、金、地位、名誉なのか。
それは欲望の達成された姿を言っているが、
幸福が達成された姿とはいえないのではないか。

みなが求める幸せが、驚くことに、じつは定義できない、
はっきりしていないというもどかしさと矛盾。

渡邉氏の言葉の中で、
「ひょっとすると、幸せのど真ん中にいても、
幸せがどんなものか知らなければ、
すれ違いに終わるだけです。」
とあるが、
むろん渡邉氏は幸せのど真ん中にいる私たちという
事態を知っていて、すれ違っているかもね、
と言っているのだ。

(2015-10-01 SNS日記より)

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