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小さな気づき (自分のためのメモ) [禅]

白隠禅師の坐禅和讃の教えは、原田祖岳老師の著で、
わかい頃より知っていた。

でもその述べられている意味が、分かっていたとは、
到底いえない。
なんだか古臭くて、調子よく言葉を並べている印象ばかり
めだってしまい、その指差している意味にまで、
頭がめぐっていない感じだった。

総体的に言って、ここは自分の弱点である。
表面にばかり眼が行って、その指し示していることがらに
眼を向けない。じつに愚かしい。

月を指差す、その指の形の方に気が捕われてしまい、
月そのものを自分の眼で見ようとしない愚か者。

白隠禅師の坐禅和讃のなかに、こんな文言が出てくる。

「闇路に闇路を踏みそえて
いつか生死を離るべき」

この生死を離れるとはなんなのだろう?
そんなことがありうるのだろうか。
人間である以上、いつかは死ななければならない。
それが生死を離れられるかのような言い方を
するとは、いったいどういうことなのだろう?
そんな魔法のようなことがありうるのか?

これは長年の疑問だった。
そしてこれは白隠禅師が、言葉を誇張して
大げさに言ったに違いないというふうな理解に
とどまっていた。

ああそんなものかい・・・といって終わっていた。

で、それから何十年。
あるときふと思ったのだ。

生死の問題が生ずるのは、自分がそれにこだわっているからだと。
生に執着し死を厭う気持ちがあるかぎり、生死の問題は消えることはない。

しかし、動物たちのような、生に執着して死を厭うということがない生き物たちは、
死ぬべき機運になれば死ぬだけで、そこには生死の問題はないのだと。

死が到来することを自然と受け入れて生きている人には、
生死の問題は生じていない。
そこにこだわりが断ち切れない人にとって、生死の問題は
大きな苦しみとして襲ってくる。

心の持ちようといえばそのとおりだのだが、
生死を離るるとは、こころの執着を離れることを
意味していた。

生まれたものは死ぬ。
死んだもののなかからまた生まれてくる。
これを何億年と繰り返してきた。
大きな生死のドラマの中に自分が浮かんでいる。

そこに気づくことができるか、
そして死は自然なものであり、死ぬ縁になれば
死ぬだけなのだと腹の底から理解したとき、
死の問題がもう自分を苦しめることはない。
死んだらどうなるか、死後の世界はあるのか、
霊魂は不滅なのかとかの問題は、関心事でなくなる。

これらのことがらは、じつは釈尊の教えのなかに
繰り返し、繰り返し語られていることがらなのだと、
のちになってわかった。
しかし受け取ることができないときには、
どんな貴重な言葉も、看過してしまうものなのだよね。

(2016-05-05 SNS日記より)

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ここまでくるとアホなのだ (自分のためのメモ) [浄土真宗]

因幡の源左が、日々生活の場面で見せた行動には、
常人ではうかがい知れない奇行が多い。
常識的な見地からは、なんとアホくさい奴とか、
バカバカしい念仏者とか、そのような印象を受ける。

妙好人というのは、泥臭くて、知性が感じられなくて、
念仏ばっかり称えているアホのように見えるのだ。
まったく現代的でなく、いまの時代に賞賛を浴びるような
そんな人たちではないのだ。

源左が草取りに田んぼに出かけていたら、突然夕立が
やってきた。
雨具を持っていなかったため、源左は、
ずぶぬれになってとぼとぼ帰ってきた。

その帰り道に、お寺の住職にいきあって、
「爺さん、よう濡れたのう」
と声をかけられた。すると源左は、
「ありがとうござんす、ご院家さん。
鼻が下を向いとるでありがたいぞなあ」
と言って雨の中を帰っていった。

鼻の穴が下を向いているので、雨が入らなくて
よかった。上を向いていたら雨が鼻から入って
息が出来なくなるところだった、ということらしかった。

ふつうわれわれは、なんて雨だ、突然降り出して、
すっかりずぶ濡れになっちまった、と怒りの心境で
帰り道を急いだのではなかっただろうか。

まして、住職に声をかけられたら、
「まったく!すっかり濡れてしまって、
えらい目にあった」
とぼやくのではなかろうか。

では源左は雨にずぶ濡れになったことを、
どう受け止めたのだろう。

想像するに、
雨が降れば濡れてしまう。
雨具を持っていなければ、濡れて帰るしかない。
ああ、雨がよう降るなあ・・・
と「事実を事実としてただ受け取った」
のではなかったろうか。

ボクたち凡人は、いつも心の中で、こうしたい、
こうなりたい、こんなことはイヤだというつぶやきを
繰り返している。自分の欲望を核にして、この世の
出来事を眺め、怒り、嘆き、悲しんで生きている。

意識していなくても、このようなつぶやきの中で
暮らしている。たまたま、雨に濡れてしまう事態に
遭遇して、そのつぶやきが意識に昇ってきて、
くそっ!と怒りの感情になるのだ。

雨が降らなくて日照りが続けば、農家の人は、
雨がふれふれと思っているから、雨を喜ぶ。

ボクたちの日常は、こんなことを飽きずに
ずっと(おそらく死ぬまで)繰り返している。
自我の欲望と、食い違いを見せる現実の
ハザマでいつもあれこれを思い悩んでいる。
そして、思い悩んでいるこころが生まれる構造に、
一生思い至ることはない。
道理に暗いということなんだ、残念だけれど。

事実を事実としてそのまま受け入れて、
鼻の穴が下を向いていて雨が入らなくて
よかったなあ・・・
今日も田んぼの草取りが出来てよかったなあ・・・
とぼとぼ歩いて帰れる足が健康でよかったなあ・・・
今日も息が出来てよかったなあ・・・

おそらく源左のこころのうちはこんな風だったのだろう。
アホの境地なのだろう。

(2016-04-30 SNS日記より)

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ありがたいの語源 (自分のためのメモ) [宗教]

感謝の意を示す「ありがたい」は、
あること難し、からきている。
実現する(ある)ことが難しいという意味だ。

考えてみるととても深い言葉であると気づく。
人身受け難し、という言葉が三帰依文にある。
人間に生まれたことはとても難しいことで、
めったにないことだということが第一義だが、
人間に生まれたことに感謝するという意味に
通じていく。

妙好人について書かれた梯実圓氏の著書にこんな話が
載っている。
若いころ梯実圓氏は、足利先生という方に、
「梯先生、あなたは自分の手を拝んだことがありますか。」
と聞かれた。
「ありませんな。手足は動くことが当たり前やと思っていますから、
別にようこそとも有難いとも思いませんね。」
「そりゃそうでしょうな。若いということはいいことですな。」

この足利先生という方は、そのとき心筋梗塞発作を2回起こしていて、
心臓の状態がとても悪かった。

「わたしの心臓は、いつ止まるやわかりませんのや、
寝ている間に止まるかもわかりませんのや。」

「寝る時に、明日、目が開くかなあ、どうかなあと
思いながら寝ます。けど、この世の目が開かなかったら、
お浄土のめが開くときだしなあ、まあ、どっちにしても
有難いことだ。」
といわれていたそうで、そして実際、
ある朝起きてこられず、亡くなっておられた。

「朝起きてね、寝床の中で、手をこうして動かしてみる。
手が動く。あ、今日もこちらのいのちをいただいていたなと
思うと有難いなあと思う。」
ということを言われていたと書かれている。

この足利先生という方のとおい親戚に、因幡の源左という
有名な妙好人の方がおられる。

(2016-04-29 SNS日記より)

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