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タイムマシンに乗って、生を考える [人生]

なにやらSFっぽい表題なのだが、最初はタイムかマシンに乗って、
愛を考える、にしようと思った。
内容はきわめてまじめな(?)仏教的な話。

ベトナム人の禅僧ティク・ナット・ハン氏の著書のいくつかは、
日本語にも翻訳されていて、愛読書になっている。
ハン氏は、日本の禅僧の趣とはことなり、仏教の根本的な真髄を
まっすぐ語って已まないところが魅力。その内容は直裁的で鋭い。
しかし、わかりやすいかというと、そうではない。
禅書に見られる難解さに出会うことも多い。

ハン氏のこんな文章がある。
『私たちが腹を立てたときにはどのような反応をするだろうか。
ふつう喚いたり叫んだり、金切り声を上げたり、自分の問題なのに
他人を責めたりするが、無常の目で怒りを見つめたら、立ち止まって、
呼吸に戻ることができる。究極の次元でおたがいに腹を立てながら、
目を閉じて深く見つめる。三百年後の未来を思い描いてみる。
・・・
未来に目を向けると、自分にとって相手はとても貴重な存在だとわかる。
いつ相手を失うかもしれないと気づけば、もう腹など立たない。相手を
抱きしめて、こう言いたくなるだろう。
「なんてすばらしいことだろう。きみはまだ生きている!
どうしてきみに腹など立てたのかな。私たちはいつか死んでいかなければ
ならないのだ。こうして一緒に生きているあいだは、たがいに腹を立てる
なんてばからしいじゃないか。」
私たちが自分を苦しめ、相手を苦しめるほどに愚かなのは、ふたりが
無常だということを忘れているからだ。いつかふたりが死を迎えるとき、
持ち物のすべてを失う。力も家族もすべて。いまここに持っている自由、
平和、喜びだけが、私たちのもっとも大切なものだ。しっかり目覚めて
無常を理解しなければ、幸せになることはできない。』

      ティク・ナット・ハン著『死もなく、怖れもなく』p.52

ボクたちは、あまりにも現在のごたごたに気をとられてしまい、
怒ったり貶したり、悲観したり、バタバタやっているのだが、
そんなボクらに向かって、ハン氏は、タイムマシンに乗って、
三百年も後の世界に行ってみたまえと言う。
そしていまを振り返ってみたまえと。

一週間もすれば、ごたごたしたことを忘れてしまう記憶喪失の自分たちだ。
三百年もたったら、自分という存在すら想いだされるのかあやふやだ。
そして相手の存在も。

三百年前に、このふたりがけんかしていがみ合っているとのことだが、
はるか過去のことで、このふたりは二つのゴマ粒みたいなちっちゃなものだ。
じつは、出会って縁があったのではないか、仲がよかったのではないか、
そんな風にも思えるだろう。

**********

ボクは最近理解したことがあって、家内に対して寛容になる、気恥ずかしい
表現をすれば愛するコツを会得した感じがしている。
くるまで出かけたときに、ハンドル握るのはたいていボクなのだが、
助手席の家内は、やれ道を間違ったとか、こっちの道を行くほうが
近いのに、とかこまごまと言う。ハンドル権を持っているのは自分なので、
いちいちうるさい奴だなと思うのが常だ。

で、あるときに気づいた。
ああ、あのときにうるさい奴だと腹立たしく思って、ハンドルを握っていた
けれど、その瞬間は、二人で仲良く車で出かけているあの時間は、
とてつもなく大切で貴重な幸福な時間だった、それは二度と来ないのだと。
それを思い返している自分がいる。

ハン氏がいう、三百年のタイムトラベルは必要なかった。
いまという時間が輝ける幸福の時間なのだ、ということが腹のそこに、
ストンと落ちた瞬間だった。

(2016-05-18 SNS日記より)

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人を幸せにするもの [人生]

先日NHKのスーパープレゼンテーション番組で、
「人を幸せにするものは何?、最も長期にわたる研究から」
を視聴した。

この研究がスタートしたのは1930年代で、
いまだ続けられており70年を超える。
プレゼンはロバート・ウォールディンガーという研究リーダーで、
彼で4代目だそうである。

研究手法はこうだ。
10代の研究対象となる人物を700人あまり選定する。
半分は上流に属するハーバード大学の学生を、
残りの半分は貧民街に暮らす10代の若者だ。

アンケートとインタビューを2年おきに実施して、幸福と感じる体験や、
何が幸福に関係しているか、その考えを調査する。
いまや初代の対象者は90歳代となり、考え方も変わり人生観も変わる。
それを追跡していくという手法である。

対象者の親族や友人など、対象者はますます増えて、
膨大なデータが蓄積された。
その中から人生の幸せとは何かを抽出した。

プレゼンテーションは15分ほどの短いものだったが、
結論は明確で、かつシンプルなものだった。

1.いい人間関係が幸福に関係している。
 パートナーや、ごく親しい友人とのいい人間関係を
 築けている人が幸福を感じる。
 とくに、いざというときに頼りになる人の存在。
 いい人間関係は、脳を守る働きもする。
 友人の数が多いと幸せかというとそうではなかった。
2.富、名声、仕事の達成感などは、幸福とは関係が
 なかった。
3.孤独な人は幸福度が最も低い。
 脳機能も低下しやすい。 
 うらみを持つことはその人自身へのダメージが大きい。
4.退職後、いい遊び仲間を作った人は幸福度が高い。
5.人生の残り時間が少なくなるほど、
 義理の付き合いや、ムダな事柄を切り捨てて、
 幸福に関係する部分に費やす時間を増やす傾向がある。

人生にむつかしいことはいらない、そんな平凡な事柄を思った。

(2016-05-14 SNS日記より)

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おおいなる誤解 (自分のためのメモ) [仏教]

仏教が正しく理解されていない理由のひとつとして、
自己の存在に対する誤解があると思う。

近年の個人主義の高まりによって、個人が大切であり、
思う存分、個性を発揮することに価値があって、
それを妨げないように社会や国の仕組みも
構築されるべきであるということになっている。

いわば個人という存在は、すべての価値観に先立って
尊重されるべき存在、アプリオリに価値を持つ存在という
ふうに祭り上げられている。
しかし、その論旨を裏付けるものは無く、
ただ無条件に個人は尊いということになっている。

このような考え方は、釈尊が説いた仏教の基本とは、
まったく相容れない考え方といわざるを得ない。
したがって、いま仏教が正しく理解されていないと思うし、
社会において力を失っている状況だ。

そもそもこの個人至上主義の思想を、
あらためて考えてみると、見逃している不思議な
ことがらがある。

『なぜ個人が尊いのですか?
この怠けやすく怠惰で、できるだけ楽しようとしている
この個人のどこに尊さがあるのですか?
誘拐犯罪や、薬物による犯罪、税逃れのさまざまな
悪智慧、家庭では虐待やネグレクト、DVなど
こんなことをする個人のどこに尊厳と価値と
尊さがあるのですか?
その根拠はなにですか?
(自分自身を含めて)いい加減でずるがしこい、
こんな人間の、どこに尊さが潜んでいるのですか?』

これらに対するつよい答えは聞いたことがない。
それもそのはずで、その根拠などないから。

仏陀は、自己には実体がないということを説いた。
自己はあるように見えて、はっきりした実体がなく、
さまざまな縁によりたまたま現在がありえているもの
であると。

犯罪を犯す縁に見舞われれば、恐ろしい犯罪に手を染める。
自分はそんなことはしないはずだと思っていても、
事故を起こしてしまう。
社会の規範を守っている立派な人間だと思っていても、
人を傷つける。

自分に善人の因子があるので、立場を保ちえていると
思っていても、それはさまざまな偶然や支えや運などに
よってかろうじて今があり得ている。
それを自分の努力とか自分の成果とか、
己を誇るようなことがらに帰している。

それはある意味、滑稽な話で、お笑いでもある。
その見方は甘いと言わざるをえない。
頭はいろいろと自分に都合のよいことを考え出すものである。
妄想を膨らませるものである。

そんな尊い存在の自己が、いよいよ死ぬとなったときに、
どのようにその事態を受け入れるのだろうか。
尊いのならば、ほんらい死ぬのはおかしく(死ぬはずもなく)、
なぜ自分が消滅しなければならないのかと
苦悶するするのではないだろうか。
あるいは、その日まで考えても仕方ない、
考えないようにしようと目隠しするのだろうか。

仏陀は明確に宣言した。
自分は生死を越えた、不死の法を得たと。
不老長寿になる方法を見出したという意味ではない。
生病老死のわずらいの苦しみの生まれ来る根本を悟り、
それらと無縁となったと宣言したということである。

縁によって成り立つ自己は、縁が崩壊すれば消滅する。
自分の存在において、なにかしっかりとした実体が
あるのでなく、それは条件しだいで生まれたり
滅したりする。そんな明滅する存在のあり方が
自己の存在の本質であったということである。
自己の存在が永続すべきであるという「べき論」もなく、
ただは波間に揺られている小舟のような頼りない存在。
そのことを見通したということである。



ふと思いだすのは、宮沢賢治の詩集『春と修羅』の序にある冒頭の言葉だ。
仏教の縁起の世界を、みごとな詩的表現によって表していて、
いちど聞くと忘れがたい。



春と修羅
                  宮沢賢治



わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鑛質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
 みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケッチです

(後略)


(2016-05-12 SNS日記より)

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