SSブログ

不生不滅を思う [仏教]

バリバリ理系人間の自分にとって、仏教で述べられた真理の数々が、
不思議と納得のいくものであることを、まず告白しなければならない。
これほどの深い内容を、2500年も昔の仏陀が悟ったことが驚きなのだ。

ティク・ナット・ハン師は、一枚の紙の中には雲が見えると語った。

一枚の紙が目の前にあるということは、その材料のパルプが
なければならない。パルプが手に入るためには、そのもとの樹木が
山に育っていなければならない。樹木が育つためには水が必要だ。
そして水は、雨という形で山林に降り注いだ結果である。
雨が降るためには、雲の生まれる必要がある。
したがって、あなたの手にある紙がここに存在するということは、
多くの連鎖をへて、雲があったということである。

これはぜんぜん詭弁ではなくて、世の実相を語ったということである。

以前の日記に記したことだが、ボクたちの体をめぐって栄養と酸素を
各組織に送り届けている血液。これが生まれるためには、
宇宙の果ての超新星の爆発が関わっていることがわかっている。

太陽系の惑星の地球に住む生命体は、その体を構成する物質を
太陽の素材からは調達できない。太陽は、きわめて単純ともいえる
構成要素からなっていて、最も軽い元素の水素の塊だ。
水素と水素が超高温、超高圧下で核融合反応をおこしてヘリウムとなり、
そのさいにエネルギーを撒き散らしている。

人体の構成元素は、水素が半分以上で60.3%、次いで酸素が25.5%、
炭素が10.5%、窒素が2.4%で、この4種類の元素で98.7%になる。
これらはタンパク質、糖質、脂質の原料ともいえるもの。

では血液の重要な構成要素である鉄は、どこからやってきたのかというと、
太陽のような恒星が寿命をむかえて、次第に圧縮してさらに超高圧、
超高圧の条件から合成された重金属が元である。ある条件下にある
星の最期として、爆発して周りの宇宙空間へその構成要素を撒き散らす。

このようにばら撒かれた元素類が、太陽の引力が引き寄せられ、
かき集め凝縮される中で、惑星の構成要素となった。
地球に集められた鉄などを、生命の不可思議な過程なのだが、
酸素を体中に運搬する要素として利用し、血液のヘモグロビンという形
になった。だから血の一滴には、はるか宇宙の果てで、
何億年前の超新星爆発の姿が宿っている。

当たり前のことだが、物質は消滅できない。
ロウソクを燃やしてやがて無くなったかのように見えても、
二酸化炭素と水と、熱と光になって周囲の空間に撒き散らされている。
その二酸化炭素は、森で木や草が呼吸して緑を作り出し、酸素を吐き出す。
水は雲になり雨となって地を潤す。熱と光は、ボクたちの体を温めたり、
夜を照らす火に利用されたりする。

元素が結合する形態を変えながらも、その元素自体は消滅しない。
呼吸している酸素は、地球のどこかの森や草が生み出したものが、
気流に乗ってやってきたものだろう。

この宇宙空間から飛び出すことができないように、物質の要素は
消滅したり新たに生まれたりすることはできない。変転しているだけなのだ。
新しく生まれることはできない、また無くなることもできない。
釈迦は、変転流転するこの世の真理のひとつとして、無常を説いた。

(2016-06-02 SNS コラム記事より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村


言葉と体験、そのあいだに横たわる溝 [思想]

昨年から、お付き合いいただくようになった元大学教授の瀬田さん(仮名)
という方がおられる。
瀬田さんは若い頃より人生の問題、とりわけ死の問題について
宗教を訪ね、また臨死体験などの調査を重ねられて、
どうしたら死の克服という課題に、解決が得られるのかを
真摯に追求されてきた。

先日、瀬田さんとお話する機会があって、その場で、
いまの仏教のあり方に対して批判的な見解を語られていた。
それはこのようなことだった。

瀬田さんは、禅仏教で言う悟りの状態が会得できるならば、
死を前にして泰然自若とした態度が取れるにちがいない
という想定を立てて、禅寺の住職さんを訪ねては、
悟りとは何かを問い続けてきたそうである。
また坐禅会にも若い頃より足を運んだそうである。
それこそ何十年と追求を続けたそうだ。

しかしながら、悟りについて、その内容を住職さんたちは
明かしてくれないし、概念的にも説明すらしてくれない、
そして、ただそれは言葉にはできない、と言われるだけである。
また僧侶の著した書を読めとか、そのコピーを送ってくるだけだ
と語られた。

こちらの問いに対して、語ろうとしない態度はきわめて不誠実なものだ、
というご批判だった。そして、ついには矛先はこちらにも向いてきて、
OASIMさんも、やはり言葉ではいえないといって、
少しも語ってくれないですねと、なんだか不満を述べられた。

そこで・・・
自分は悟ったわけではありませんが、とまず断わった上で、
こんな例をお話した。

『蒸し暑い日、かんかん照りの道を歩いて、
喉がカラカラになったけれど、しかし周りに水らしいものがない、
そんな状態で半日ほどすごしたとしましょう。

この喉が渇いたつらい体験を人にどのように伝えますか?
またさいわいお水を手に入れて、喉の渇きを癒したときに
「ああ、うまい!」という感覚を言葉で表現できますか?

言葉で伝えられる範囲は、つまりこういうことではないでしょうか。
自分は喉が渇いている、そしてようやく水が飲めたときに、
水とはこんなにうまいものだとは思わなかった、
という概念的なことがら(つまり情報)ではないでしょうか。

つまりその話を聴いた人が、ああそうなんですねと、
他人事として聴いたきりで、話は終わってしまいませんか。
言葉を聴いた人が、喉の渇きを体験してくれるわけでは無いし、
ましてその水のうまさを実感してくれるわけではないです。

もし、その聴いた人が深く共感してくれるとすれば、
その人にも同様な体験があり、水がこんなにもうまかったのだと、
感じる体験をした場合ではないでしょうか。』


なんとなくはぐらかしたような答えではある。
しかし言葉は、その体験につけた符号のような呼び名であるために、
体験を共有できていない人には、言葉の概念しか伝わらない。

悟りについても同様で、悟りを理解した人同士ならば、
少しのヒントや言葉で互いに体験を理解でき、共感できる。
しかし悟っていない人に、どれだけ説明してもその人が悟りを
得るわけではない。

よくあるたとえ話であるが・・・
あのきれいな月を見てと指差したら、
相手は月を見ないで、指の方ばかり見ている。
月が見えていない人にとっては、見ろと言われた先には指の姿しかない。
だからいくら言葉を費やして説明しても、月のことは伝わらない。

月が見えるようになった時、
初めて指差した先の月に気づくことができ、
その月の美しさに感動できる。

悟りを、幸福というものに置き換えても同じだ。
いまある生活が恵まれており、生きていられるだけで幸せなんですよ、
救われているじゃないですか、そのことを味わい喜びましょう、
と言っても、その幸せがいまの生活に見い出せない人には、
何のことかわからない。へんなことを言う奴だなと、
訝しがられるだけである。

宗教者がついには、学問や書を捨てて、
修行に打ち込んだという話は多い。
いつまでも、概念の世界で格闘していても、
救いはやってこないのだと絶望するのだろう。

(2016-05-30 SNS コラム記事より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

余計なおせっかいだが、宗教のことをすこし書いてみる [宗教]

宗教に近づくのは、若いころと老年を意識し始めたころだ。
若いころは、まだ知らぬ深遠な世界があるのではと思って接近する。
年老いてからは、死が近づいてきてこの先がわからなくなった頃だ。

信仰のあり方や、そもそも宗教と何ぞやという議論がまま起きて、
必ずといっていいほど提出される意見がある。

ひとつは「鰯の頭も信心から」という言葉に代表される、
得体の知れないあやふやで未知のものを信じる姿を批判するもの。
おもに科学的見地を強調、あるいは絶対化する立場からだ。

もう一つは、ニーチェに代表される批判で、弱者の怨念や
寄る辺なさから神や超越者への信仰が形作られるというもの。
つまり弱者の立場から宗教が生まれるとするものだ。
そして、この二つは一緒と見られることも多い。

自分はそのどちらにも組しないが、かといって宗教とは無縁かというと、
間違いなくその正反対の方だろう。日々、宗教に関する本や経典を読まぬ
日は無いし、宗教をテーマとする集まりでお話させていただいている。
そういうと自分の立場を明確にせよと、お叱りを受けそうだが、
基本的に、お釈迦様が説いた仏教に帰依している。

自分の学んだバックグラウンドは科学技術にあって、専門分野は
量子力学、半導体工学、マイクロ加工技術、センシング技術だ。
現役時代は、主に研究開発や製品開発の現場に籍を置いた。
合理的なことがらに馴染み、実験や推論を重ねてきたいわば理系人間である。

だから不合理なことがらを、「鰯の頭を信じる」ようなことはさらさらない。
ただ自分は思う。
科学技術の進歩により、わかってきた知見が増えるのは事実だが、
おなじか、それに倍加して、新たに分からないことがら、謎や疑問、課題が
増えて来る。

科学技術の進歩により、人類が知り得た知識の量が増えて、
そのことにより未知の世界が狭くなり、やがて無くなるだろうと
考えるのは正しいとは思えない。

この世にあり得る知識や情報の量が一定で変化しないと考えるのは、
妄想では無いだろうか。知らない世界のことは知識が無い。
だから単純化してそれを考えるしかないのだ。

ひとたび未知の世界の扉の端緒が開かれるたびに、
多くの疑問が噴出してくるものだ。そして研究課題が増える。

火星の軌道を観察することしかできなかった時代にくらべ、
そこへ探査機を送り込んで観測をするようになった現代は、
火星に関する知見が増えた分、未知のことがら、疑問は
はるかに増えているのである。

宇宙に関する新しい知見が得られるたびに、このすばらしい法則を、
作り出したものは偶然なのだろうか、生体の機能の新しい発見が
なされるたびに、このような精緻な仕組みがどのようにして
生まれたのだろうと、感嘆することも増える。

ニュートンは自分自身のことを、真理の海の浜辺で新しい貝を見つけては
喜んでいる子供に過ぎない、真理の海は人知でははかり知れない
深いものだという趣旨のこと述べていたと記憶する。

またアインシュタインの次の言葉にも共感する。
『自然の真の探求者なら、だれでも一種の宗教的畏敬の念がある。
というのも、自分のさまざまな知覚を結びつけるきわめて繊細な糸を
考え抜いたのは自分が最初だ、と想像するのは不可能だと感じるからです。』

知の地平を新たに開拓した巨人ならではの言葉であるが、
その知の限界を知るがゆえに、その先のものへの畏敬の念が、
おのずと生ずるのであろうと想像する。
すべて知り得た、すべて克服した、と奢るような気持ちは
微塵も感じられない。むしろますます謙虚になるように感じる。

人知を超えた世界のことは語りようがないが、畏敬の念を持つことはできる。
宗教が語られる素地というのはそれを基にしていると考える。

禅者のことばに、釈迦が悟りを開いたとき、もし釈迦の姿を傍から見たら
大きな疑問符だけがそこにあることが分かるだろう、というものがある。
大いなる疑問符、宗教はそこに関わる。

(2016-05-25 SNS コラム記事より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。