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引き算でなく、足し算 [宗教]

板子一枚下の日記を書いたら、思っていたよりも
人には理解していただけないものだ、と感じました。
やはり自分独特の変わった考え方なのかもしれませんね。

でも何十年の悩みと思索の結晶であり
(ちょっとおおげさ?)、その考え方は、
今後も堅くなることはあっても変わらないだろうと思います。

その考え方のベースになっているのは、
浄土真宗の教えに近いものかも知れないと思います。
その方面の本を読んでみると、とてもビシビシと
こころに伝わってきます。
自分は禅の本とかはかなり読みましたが、
真宗のような他力本願の勉強はあまりしてこなかったのです。
それはさておき、板子一枚のたとえが分かりにくいとすれば、
算数で考えるのはどうだろうと思いました。

ボクたちは、健康でお飯が食える生活を長く続けると、
いつの間にかそれが当たり前になってしまいます。
これが日常だということになります。平凡な毎日で・・・
とか言って退屈さえ覚えることになります(罰当たりなんですが)。

ここをゼロ水準にしてしまう。当たり前のことがらにしてしまう。

ところが会社が倒産したとか、大病にかかったとか、
娘がぐれたとかいろいろな出来事がやってくると、
災難だ大変だということになります、
病気、けが、失業、ぐれは、マイナスの出来事になります。

だって、健康でご飯が食べれて、平々凡々な、
日常生活が普通であり、そこがゼロ基準ですからね。
そこからの転落はマイナス以外の何物でもありません。

だからボクたちの生活は、いつもマイナス的出来事に見舞われて、
不幸なことがいろいろ起きて、いつも転落させられる人生だということになります。
これが普通の考え方ですね。

ところがあるとき、ボクはいのちについて、
ほんとうに真面目に考える機会があって、
いのちって、とてもすごいことだと認識するに至りました。
いのちだけでなく地球という恵まれた星が与えられたことも、
次々と気がつきはじめました。

もともと技術者として勉強してきたバックグランドが自分にはあったので、
いのちとか地球という星とかについて、科学的見地から見ることが出来ます。

これはあまり広く言われないことですが、
偉大な科学者はこの世界とかいのちに対して、とても敬虔な気持ちを抱いています。
ニュートンもアインシュタインも、ブラウンも、述壊を読むとそうなんですね。
無神論とは程遠い方々です。
神という存在を真面目に信じているようです。

で、元に戻ると、平穏無事な日常生活を送っていること、
平凡で退屈なくらいの毎日を送っていることが、
とても輝ける日々、恵みの日々だと思うようになりました。

算数で言うと、ものすごいプラスを与えられて生きている。
ゼロなんかじゃない。ものすごいプラス領域で生きていると思うようになったわけです。
病気したらすこしプラスが減るかも知れません。でもゼロにはならない。
娘がぐれてもほとんどマイナスなんかじゃない。
いっぱいのプラスの中に生きていられるのです。

ではゼロは何かな?ということになりますが、それは与えられたいのちが尽きて、
おおもとに帰るときだと思うのです。
この辺の感じは、とても浄土真宗的ですが、でもいのちが、
大いなる存在からやってきたと考えるしかない以上、
いのちが終わればそこへ行くしかないと思うのです。

その大いなるものは何かという疑問が湧きますが、それには触れません。

とにかく、さんまさんじゃありませんが、生きているだけで丸儲けという感覚です。
ぜんぶプラス。生きている人はぜんぶプラスです。マイナスはないのです。

そりゃ人生の絶頂期がいちばんです。
それを基準にしたらイヤな出来事が起きるたびににマイナスが増えていくだけ
ということになるのでしょうが、その人だって自分の意思でなく、
何ものかに生かされているのは事実です。
大いなる存在に今日も生きよといわれているわけです。

いのちの事実に目覚めると、ぜんぶプラスになってしまう。
イヤなことがあってこころがボロボロでも、殺してやりたいほど憎い相手がいても、
嫉妬心で気が狂うほどであっても、その人はプラスなんですね。生きよといわれている。

だから引き算なんて、もうやめようと思うのです。
もともとたくさんのプラスを与えられているのに、
引き算を考えている頭がヘンです。

(2014-03-21 SNS日記より)

感情には法則がある [身辺雑記]

日々の生活のなかで、嫌なことに嫌悪感を覚えたり、
怒りを覚えたりして、
感情に翻弄されてしまうことが多いですね。

感情は、制御がむつかしい代物です。
けっして理性では抑えようもないところがあります。
これが元でトラブルを大きくしてしまったり、
後悔のタネを作ったりします。
とくに怒りの感情は、コントロールが難しく、
人間の感情の中ではいちばん根深く、
難物ではないかと思います。

なぜ制御しにくく、理性で抑えることが出来ないのか
というと、これは頭の支配下にいないからで、
いわば体の一部のようなものです。

とくに怒りの感情は、「自我」の存在に関わっていて、
自我が脅かされたり、生存の危機を受け取ると燃え盛ります。
これはある意味、世間で生きていく以上、
自我は自分を守る基本的な仕事をしていますから、
仕方ないものです。

かく言う自分も長いこと、この感情、とくに怒りの課題について
考えたり格闘したりしたことがありました。
でも、けっきょくは自我が消滅しない限り、怒りは消えることはありませんね。
うまく付き合いしかないと思っています。

もちろん修行し努力して自我が消滅する地点まで到達するのならば、
それはすばらしいことですが、悟りでも開かない限り、なかなか徹底しないと思います。

ところで制御しにくい感情という代物ですが、体の一部のようなもので、
感情の法則というものに従っています。
これを知っていると、無駄なトラブルを引き起こさなくて済みますし、
余計な苦しみも減るものと思います。

それはむかし必死に勉強した森田正馬先生が唱えられたものです。
だいぶむかしの言葉で書かれています。
しかし、いまでも自分のなかでは、ゴールデンルールです。

こんな法則です。

一、感情は常に同一の強さを以て永く持続するものにあらず、
   之を放任すれば自然に消失す。

二、感情は之が行動に変化すれば消失す。

三、感情は之を表出するに従ひ益々強盛となる。
   ランゲは吾人は悲しき為に泣くに非ず。
   泣くが為に悲しきなりといへり。

四、感情は之に慣るゝに従ひて鈍くなる。
  (白揚社:森田正馬全集第7巻 p.555)

とくに重要だと思うのは、三の法則ですね。
感情のうちでは、怒りを言葉にしたりすると、ますます強大化して収まらなくなります。
これを抑えようとすることも同様で、けっきょく感情に溺れていく状態や、
格闘する状態は、感情の火は燃え盛るばかりということです。
これは感情に、「えさ」をあげている状態で、
エネルギーをもらったので、いつまでもわれわれを襲います。

しかし怒りの感情のままに、行動に移したとたん怒りは消えてしまいます。
憎たらしいヤツを殴ってしまえば、エネルギーゼロになり、急に後悔の念や
自己嫌悪の感情に変わるのです。

で、いちばん賢明なのは、一と四の法則に書かれているとおり、
怒りの感情などを静観して放っておくことで、しだいに消えてしまうという事実です。

ほうって置くという処置の仕方は、とても難しいのですが、
それは格闘するのでもなく、否定するのでもなく、それに従うのでもなく、
ただ他人事として静観することを続けるという感じですね。これはある程度、
年食っておとなにならないと難しいかもしれません(笑)。
怒りの感情が湧いている自分を知り、
すこし離れてそれを見つめている感覚といったらよいのか。
(この見つめている自分の方が重要なのですが、それはまた)

その状態とは、エネルギーの消耗を待つわけで、兵糧攻めみたいなもの。
ただ時間が過ぎるのを待って、えさがなくなるのを待つのです。
これは業が尽きるというのと似ています。
怒りの感情も、放置して、放置して、放置しておくと、
怒りそのものがエネルギーを使い果たして、
微弱なものとなり、
それを問題にしなくなる自分がいるというわけです。

(2014-03-18 SNS日記より)

板子一枚下は・・・ [宗教]

板子一枚下は地獄という。
船乗りの生活は、船の上に敷いた板子一枚の上にある。
でもこの下には地獄が待っている。

いつの頃からか、自分はこの地獄から
ものごとを考えるようになった。

板子の上を、日常の基準として生きるのでなく、
板子の下が、もともとのポジションなんだと思うようになった。

死んでいて当たり前。
もし生まれてこなかったら、死んだ状態と同じ。
なにもない。
もともとここから生まれてきたんだという思い。

もの心ついたら、生きていた。
板子の上で生活していた。
だから生への執着はものすごくある。
でも、基準は地獄にある。

リストカットして死のうとする人がいる。
切れば皮膚が裂けて
血が噴出す。
そして血液の中の血小板が集まって
必死に止血しようとする。

体は生きようとしている。
頭ではいくら絶望して死の選択をしようと、
そんなことは関係ない。
いのちを生かそう、生かそうと
体は総動員して血を止めようとする。

何が正しいことなのか?
絶望した頭脳の方だろうか?
死ぬことが正しいことなのだろうか?

いやいや血が噴出すのを見るとき、
そんなことはまやかしだと思う。
いのちは、いのちをつなごうとして
必死に働いている。

いのちは生きるように定められている。
どこからか大きな力が働いて
生きよと言っている。
それは神なのか、
大いなるいのちという力なのか
それは分からない。

でも死ぬように命ずるものなど、
どこにもいないことは確かなのだ。

大きななるいのちの力は、
ボクたちには大きすぎてまだ理解できていない。
なぜ血液を循環させることで酸素を送る仕組みを
つくったのか、複雑な免疫反応を作るに至ったか。
なぜ花は季節を知り、受粉して
種を生み出すのか。

ただ分かることは、いのちには
生きるという命題が与えられている。
そういう体をいただいている。

それは恵みだと思う。
感謝しなければいけないと思う。
無条件にだ。

頭は、いのちの内の、ほんの一部だけしか
理解していない。
生命の誕生の秘密も理解できていない。
そのくらい頭の世界は不完全で、発展途上だ。

本当の姿は、いのちの上に抱かれて
頭脳が発達しその発展途上の乏しい頭で、
あれこれと思い悩んでいるというべきだろう。
だから頭をあまりにも信用するというのは、
おかしいのだ。

いのちこそ基本にあるもので、
それはなぞに包まれている。
そしてどんなときも生きている限り
いのちは生きようと働く。

その仕組みに包まれてボクたちは日常を送っている。
平凡とかつまらない日常とか言って・・・
ああだ、こうだと不平不満だらけで・・・
罰当たりなボクたちなのだ。

今日も目覚めたら息をしていた。
今日も生きよと言われている。
今日も奇跡は続く。
板子一枚下は地獄が口をあけている。

(2014-03-14 SNS日記より)

いちばん素敵な名前 [いのち]

明石家さんまさんが命名した、
娘さんの名前「IMALU イマル」は
とてもすばらしい名前だと思う。

生きているだけで丸儲け、
今を生きる、
という言葉を縮めたとのことだが、
これはいのちの本質を突いている。

ボクは常々、生きているだけで
恵まれていると考えている。
死んでいたらこんなことは言えない。

ガン宣告か、重大な病気が見つかって、
あと3ヶ月のいのちですといわれたらどうだろう。
あと3日といわれたら。
あと5分後の事故で、
君は死ぬんだよといわれたら。

今を生きているだけで、
まるもうけなんじゃないかと思う。
それとともに、今という時間をいっぱい生きていない
自分の姿に気づくのではと思う。

ボクたちはたいてい、
未来のことを考えて不安になり
過去のことを考えては後悔している。
今を生きていることを恵みと捉えることはしない。
命をもらっていることに感謝もしていない。

これってすごい恩知らずだ。
そのくせ、
自分の力で生きているんだと自慢している。
実際は、一呼吸すら、心臓の一鼓動ですら
自分でやってはいないのに。

今日も息をしていた、
今日も生きていた、
その恵みの積み重ねが人生なのに、
余計なことがらに心を奪われて
生かしてもらっていることを無視している。

これがボクの宗教観の根幹。

(2014-03-13 SNS日記より)

仏教は唯物論なのだろうか? [仏教]

橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の対談形式の『ふしぎなキリスト教』という本は、たいへん面白い。ユダヤ人のたどった歴史や聖書の成り立ちなどが、わかりやすく解説されていく。
新書大賞というものがあるらしいのだが、新書大賞2012年の第1位と題されている。

ところで、橋爪さんのお話の中で、仏教の説明が出てくるのだが、こんな調子だ。

「仏教は言ってみれば、唯物論です。自然現象の背後に神などいない。すべては因果律によって起こっているだけ、と考える。
(略)
そこには、因果法則があるだけで、だれかの意思が働いているわけではない。・・・
そういう自分たちを取り巻いている宇宙の法則を、どこまで徹底的に認識したかが勝負であって、それを徹底的に認識した人が、仏(ブッダ)と呼ばれるわけです。」

ボクは正直言って、この考え方は浅薄な感じがした。
キリスト教の本で、仏教の解説をするものではないので、そんな理解なのかもしれないが、でもやはりちがう感じがした。それをしばらく考えたが、仏陀はそう考えただろうかと思った。

いちばん引っかかるのは、いのちの部分だ。
いのちが生まれた事実への驚きや敬意という部分だ。
さらに言えばいのちに関するふしぎさだ。

新しいいのちが生まれるときの感動や、生命が守られたときの安堵感は、いったいどこからやってくるのだろう。

すべては物質の運動で、ただ因果律に従って動いているだけであると深く認識する人は、唯物論を信奉する科学者ではないのだろうか。そのような科学者こそ、悟った人ということになる。

どうもこころとかいのちに関する部分が、すぽっと議論から脱落した感じは否めない。

知る限りでは、仏教では人格神のような存在に触れることはない。いっさい言及していない。そういう形而上的な空疎な議論を仏陀はたしなめた。
でも仏陀は形而上的な世界の事情は、かなり深く見通していただろうと想像する。ただそれを弟子たちに語ることはなかった。

(2014-03-12 SNS日記より)

思い出す母の言葉 [身辺雑記]

先の日記を書いてから、
母が自分によく言っていた口癖の言葉がよみがえってきた。

おまえはゆっくりと育っていくタイプなんだ、
大器晩成なんだよ。

いわれた当時は、そんなものかな、
その言葉がなにを意味するのかわからなかった。

愚鈍な息子を信じていた言葉、
あるいは自分自身に、
言い聞かせていた言葉だったのかもしれない。



隣の家に同学年の男の子がいた。
いつも比べられて、その子の踏み台になっていた。
そいつがどのくらい優れているか、
どれくらい裕福なのか、
その比較対照になっていた。

きみはこんな本を持っていないでしょ?
ルパン全集なんだよ。
これって地球儀っていうのだけど、
クリスマスプレゼントなんだ。

でも愚鈍な子どもの有利なところは、
そんな言葉や態度にいやな思いをすることなく
(感じることもできずに)
そうなんだと素直に受け止めていたことかもしれない。

その生意気な子の家で、
ある日とても不思議な本を見た。
その子の父の書棚にあった物理学の本だった。
今思うと電磁気学の本だったようで、
積分記号(インテグラル)で方程式が書かれていた。

この幽霊が手招きをしている文字は、
なんと読むのだろう、
これは何を表しているのだろう、
その不思議な感覚は、いまだに鮮明に覚えている。
それを理解したい、わかるようになりたいと
強烈に思ったはずである。

なぜならその後、長じて物理学、化学の専門分野に
進むことになった。積分、微分、テンソル、関数論、
基礎論などが自分の中に浸透していったから。
ほんとうに、ゆっくりと、マイペースで。

(2014-03-10 SNS日記より)

母を思う [身辺雑記]

愚鈍な子どもだった自分は
まわりからも疎まれていたようで
そんな記憶のいくつかが思い浮かぶ
近所のうわさで
養護学校に行くようだねと
言われていたとのちに聞いた

そんな子どもの将来を案じたのだろう
母はしつけなどに厳しく当たった
子ども心にも鬼のように感じていた

外でいじめられて泣いて帰っても
慰めてくれることはなく
かえって自分がだらしないのだと叱られた

可愛がられたという記憶が無い
抱きしめられた思い出も無い
いつも厳しいしつけに追いやられていた
記憶ばかり

しかし
今ごろになってよく思い起こすのは
ジャンパーを着せてもらっている自分の姿
自分ではジッパーをはめられなかった

寒い風の吹く中で
愚鈍な子どもに向かい合って
しゃがんだ母がジッパーを留める
自分はその手先をじっと眺めている

(2014-03-06 SNS日記より)

達磨安心という逸話 [禅]

以前の日記にも記した気がするけれど、
ボクの好きな禅の逸話を改めて振り返ってみた。

達磨大師が仏教を伝えるためにインドから中国にやってきて、
最初に得た弟子が二祖慧可という方。
といっても面壁九年といわれるように、真剣なる弟子が現れるまで、
ただただ洞窟で9年も座禅を組んでいたという話だ。
手足が腐ってだるまさんになってしまったと言うのは、
たぶん後から付け足された逸話だろう。

慧可という人は心が不安で仕方なく、それを克服するための
方策を何年も模索してきた。でもそんな方策にめぐり合うこともなく、
ようやく師と仰ぐ達磨大師に問答をすることができた。

達磨大師の答えはきわめて単純だ。
「不安のこころを、ここにもってこい」と一言。

この手の問答は、禅師がよくやる手だ。

大燈国師を、ときの天皇がぜひ召抱えたいと、
探せと命じた。なにせ20歳で悟りを開いて、その後
京都の市内で何十年と乞食にまぎれて暮らしていたらしいのだ。
好物の瓜をえさにすれば、見つけられかもしれないと
瓜をふるまうとお触れを出した。その結果、乞食がたくさんやってきたが、
それらしい人物がいたので、問答をする。
「手を使わず、瓜を受け取れ!」と
難題を吹っかける。
すると即座に
「手を使わず、差し出せ!」と応えたので、
すぐ大燈国師だと見つかってしまった。
そんな話が伝わっている。

さて、達磨大師が不安なこころをここに持って来い!
と言ったときに、ほんらい無いものを出せと命じたのだ。
慧可は、不安というものが実体としてあると思っているから、
それから必死に不安のこころを捕まえようと努力する。

ついに不安の実体を捕まえることが出来ずに、
ギブアップ。この間、何年も努力したかも知れない。
ついに見つかりませんでしたと、達磨禅師に告白する。
達磨禅師は、ただ一言、
「たったいま、不安のこころを安心させたではないか!」

あまりに問答が簡潔なので、その間の思考のやりとりを補完する必要がある。

慧可は、不安のこころがどうしても見つからないと言った。
それは不安という状態はたしかにあるけれども、
実体として不安が転がっているわけではない。
こころの作る影として、喜びがあったり、悲しみがあったり、不安があったりする。
でもそれぞれ実体は無い。こころはよく転々として、とどまるところが無い。

その仕組みが分かってしまえば、不安に虜になることはない。
自分の心は、不安に凝り固まっているということはない。
そうなるとしたら、自分が好き好んで凝り固まっているのだろう。
こころに色は無いというのが本当のところ。

不安を克服する方法などと言うものも、まやかしだということになる。
そんなものは、まぼろしで、実体がないからだ。

ある意味、幸せになるゴールデンルールというのも、
眉唾なところがある。こころに色があってたまるか、という感じに近い。
幻を求めて、幾年月ということになりかねない。

(2014-03-04 SNS日記より)

ペンフィールドの結論 [科学・技術]

カナダ人神経外科医ペンフィールドは、モントリオール神経学研究所の初代所長になった頃は、唯物論者だった。
精神とは、脳の活動が生み出したものに過ぎない、という見解に立っていた。

彼は脳のマッピングというものを作った。脳地図とも呼ばれるこの図は、脳の各部位が身体のどこを制御しているものかを描き表したものだ。よく脳の表面に手や目などのイラストが描かれた図をご覧になった方もおられるだろう。

てんかん患者の脳のあちこちを電極を用いて刺激して、身体のどこに変化が現れるかを、詳細に調べたのだ。こんな調査を数十年行ったというから、その徹底振りは並ではない。

その中で、電極刺激によって反射的な肉体反応が現れたり、感覚が生じた。幻覚作用も引き起こされ映像を観ることもあったようである。脳には痛感というものがないため、患者は覚醒したまま、マッピングの調査を受ける。

最も興味深く思うのは、その調査の過程で、患者はいつもはっきりと自覚していたそうである。電気刺激で身体が動いたりすると、今のは外部の刺激で動いたのだと。
自分の意思で動かす場合と、外部刺激で動かす場合が、はっきりと区別できたと告げたということなのだ。

ペンフィールドは、研究を締めくくるにあたり、こう述べた。
「意識、論理的思考、想像力、意志力といった高次の精神機能は脳が生み出したものではない。精神とは脳と相互作用する、非物質的な現象なのである。」

もし脳という器官が、精神を生み出しているとするならば、電気刺激を受けて動きだした脳は、その起動した原因を自覚できない。外部からの刺激だろうが自発的な意思であろうが、脳の中でおきる電気パルスの行き交うさまは、まったく同じものであるはず。
唯物論の立場では、電気パルスの交錯するプロセス以外は、脳内には何も無い立場だから。

外部刺激ではなく自分の意思で身体を動かしたり、考えたりする世界(つまり精神と呼ぶもの)が、明確に自分のなかに内在しているという自覚、つまり自己の存在というもの、ここにポイントがある。自己はどこにあるのだろうか。

唯物論者として脳の機能を解明するという大きな仕事に取り組んだペンフィールドが、晩年に得たもの、それはまことに皮肉にも、その正反対の結論だった。

(2014-02-28 SNS日記より)

われ思う、ゆえに・・・ [思想]

デカルトって変な男だと思う。
われ思う、ゆえにわれあり、という言葉で有名だ。
しかし、物質と精神は別物だ(物心二元論)と決め付けたことでも知られる。

デカルトが生きていた時代は、スコラ神学が衰退して、時代の流行として懐疑論が蔓延したらしい。そこで確かな学問を基礎を築こうと、いろいろと考察しているらしいのだが、訳のわからない神の存在証明などもして見せている。

このところうつらうつらと考えているのは、われ思う、ゆえに・・・の言葉だ。

デカルトの論理は以下のようだ。
自分の感覚は、間違っているかも知れない。だから見えるものや、触っているものは、ほんとうは騙されているのかもしれない。意地悪な悪魔が、そのように錯覚を起こそうとしているかもしれない。

しかしいくら疑っても、その疑っている自分自身は、まちがいなく存在する、と論を進める。疑っている自分自身が、本当はないとしたら、疑うことすら出来ない、あるいは疑っていることも夢になる。あるいは自分が消滅してしまう。

これは確かにそうなのだけれど、それだけのことでもある。なんら価値を生まない思考だと思う。だって、自分はここにいます、と証明したところで、それが何?という感じだ。なぜこの言葉が有名になったのか、不思議でならない。

ま、それはともかく、自分がまちがいなく存在しているとして、目の前にある事象は、存在するのか?という疑問がつづく。デカルトは、事象は空間の広がりの中にある実体であり存在するとした。そして自分を含む精神とは別物の実在であるとした。

その根拠はよくわからないのだが、そうした。
それが後に、かたや唯物論を生み、かたや唯心論を生んだ。罪作りだよね。
根拠についてしっかり考察して、事象は実在すると言って欲しかったと思う。

ところで、ボクは唯物論の立場に立たない。
というか唯物論は、未完成で仮説に過ぎないと思っている。人間の脳が、高度なコンピュータであるとしても、そこから、「われ思う・・・」という意識が、生まれる仕組みを解明していないからだ。

想像力や知性や愛情というものが、いかに機械から生まれうるのか?どんな風に精神活動が、機械からほのかににじみ出てくるのか?機械がどのようにして、われ思う、と自認するのか、そしてゆえにわれありと表明するのか?

脳の中のニューロンの結合が、ある日自立的、有機的に複雑に結合して、それはなしえるのだろうか?

いまだに物心二元論は、根本解決をみていない。
もし唯物論の言うように精神も機械の生み出す機能に過ぎないということが証明されたら、すごい人工知能が生まれるだろう。だがそれは当分(かなり無限に近い当分)やってこないと思っている。

(2014-02-20 SNS日記より)

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