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上達の技術 その2 [科学・技術]

先の日記の続編です。

面白いデータがあるそうです。
運動など、最初からうまくこなしてしまう人がいますが、
じつは器用な人は意外に伸びないというデータがあるのです。

不器用な人がたゆまぬ努力をして上達するスタイルが
後半戦で伸びていくということらしいのです。

前書にも、
『チャンピョンは、案外不器用な晩成型のアスリートが多いのです。
もっといえば、才能は少々不足していた方が大成できると私は考えています。・・・
              児玉光雄著「上達の技術」p.39 』

凡人としては、とても勇気づけられるお話なのですが、
それはなんとなく納得いくところがあります。

家内は昔から書道教室を開いていて、
お子さんたちを教えている経験が豊富です。
そんな彼女があるときこんなことを言ったことがありました。

「始めたばかりなのに、器用にさらさら書いてしまう子がいる。
最初とてもすごい子だなと見ているのだけれど、そのうち伸び悩み、
頭打ちになってしまうことが多い。
本当にうまくなる子は、こういうタイプではない・・・」

考えてみると、器用な人は、いろいろなことが満遍なくできるので、
技のレパートリーが最初からたくさんあります。
新しいスポーツに取り組む際に、
その引き出しからいろいろな使えそうな技を持ってくるのではと推察します。

つまり本当は練習によって手に入れなければいけない技を、
別の間に合わせで持ってきた技術みたいなもので、こなしてしまう。
そんな気がします。

でも、進んだ段階になると、付け焼刃的な技術では間に合わなくなってくる。
食い違いがでてくる。そしてほんらいの技術を
練習しなくてはいけないわけですが、
それがなかなか出来なくて停滞する、そんなイメージです。

スポーツには基本動作というものがあって、
それは無意識でも出来なければいけないと思います。

不器用な人は、それに真っ向勝負している感じがあって、
なかなかクリアできません。間に合わせの別の技を持っていないので、
いつまでもモタモタしていて上達しない感じがあるのです。格好悪いのですね。

でもひとたびそれを習得したとき、その基本技術の上に、
次々と上の技術が積み重ねができ、応用も広がるので、
急速に上達するのではと思うのです。

基本の技術や動作の大切さを思うわけですが、
練習はそこに焦点をあわせなければいけませんね。
小技やしのぎ技でごまかしていると、いずれ伸び悩んでしまうということです。

ふたたび家内の言葉ですが、
「最初からうまく器用に書く子は、観察していると真似がうまい。
人のものを見てそっくりに書く技術、つまり物まねがうまい感じがするのね・・・」

なるほどの言葉です。
だてに長年教えているわけじゃないねぇ・・・

(2014-02-06 SNS日記より)

上達の技術 [科学・技術]

児玉光雄著『上達の技術』を書店で見つける。
一直線にうまくなるのための極意、と副題にあるので、
即読んで見なきゃ・・・というわけ。

おもにスポーツ系の上達の仕組みや練習法がまとめられている。
自分の場合、スキー技術がもっと向上しないかなという下心がある。

運動における脳の働きを解説した章が、示唆に富んでいて面白い。

ロシアの学者ニコラス・ベルシュタインが、運動の場面においては、
脳は腕などの動きを命令する制御信号を出していない、と主張したとある。
つまり状況に応じた運動指令を脳は出力していないと言ったわけ。

たとえばテニスの場合、関連する筋肉は、肩の関節に10個、
肘関節に6個、尺骨関節に4個、手首関節に6個ある。
脳の指令でこれらを動かすとき、合計26個の筋肉の指令を出す必要がある。
さらにそれぞれの筋肉には、運動量の自由度が100以上のものがあり、
2600の自由度を決める必要がある。

さらに腕以外にも足、腰、体幹などの指令もおこなう必要がある。

こうなると、テニスの球を打つときに、飛んできた球の速度や軌道、
回転などを瞬時にとらえて、身体に対して膨大な指令群を
出しているとは考えられない。無理だと言うことだ。

では実際どうしているのかと言うと、脳はあらかじめ、
球を打つ動作のたくさんのプログラムを事前に知っており、
飛んできた球に適応する運動プログラムを、瞬時に選択する仕事をやっている。

脳は、指令する仕事ではなく、選択する仕事をやっている。
与えられた条件下で、環境に則した選択システムとして働いていると言うことだ。

うまいプレーヤーは、選択するプログラムの数において、
初心者のそれを圧倒するほど持っている。なので、
即時にファインプレーなどが出来る。

当たり前のことだが、事前に脳がもっている運動プログラムは、
練習によって培われることになる。ふと湧いて出てくるわけではない。
練習量において勝る選手が、やはり強いと言うのは理にかなっているということだ。

スキーのショートターンは、難しい回転技術のひとつ。
ショートターンの練習に関して、昔から言い古された言葉がある。
1万ターンしたスキーヤーより、2万ターンしたスキーヤーが上手い。
3万ターンしたスキーヤーはさらに上手い。

雪面の条件は、それこそ千差万別で、
その上を滑る板の滑り具合を瞬時に判断して、
踏み込む量とか上体の持って行きかたを判断する必要がある。

プログラムを増やすには練習しかない、と結論付けられれば、
そりゃごもっとも(けっこう当たり前の結論だ)。
納得して、ゲレンデに向かうしかない。

(2014-02-05 SNS日記より)

自責の念(自分のためのメモ) [人生]

自分はダメだという思い、つまり自責の念にかられて、
苦しむということがあります。

この苦しさは、自分の分裂による苦しさです。
ダメな自分と、それを許せない自分。
この二つに分離してしまっています。

苦しむのは、ダメな自分をみて、
こんな自分ではダメだと思うからです。
ならば、ダメだといっている自分は、ダメではないのか?
ダメさ加減が分かっているのだから、
わかっている自分の方は、ダメではないのでしょう。

しかしながらダメな自分を見て苦しむということは、
ダメではない優れた自分でありたいと思っています。

優れた自分でありたい強い願望があって、
それが裏切られるから苦しいということです。
この願望の存在があるからジレンマが生まれる。
強い願望がなければ、ダメな自分でも苦しまないのです。

したがって、ダメな自分の存在ばかりが
強調されてしまいますが、
ほんとうは優れた人間でありたいという、
つよい願望を持つ自分がいることを自覚すべきです。

妬けになったり、死にたいとか思うのは、
本末転倒です。拗ねているに過ぎない。
優れた自分でありたいという願望を持つ以上、
その路線で邁進するしかありません。

(2014-02-02 SNS日記より)

現在という時間 [人生]

パスカルのような天才は、自分のような凡人には理解できない言葉を
たくさんメモとして書き付けている。
でもおしなべて深く納得させられる指摘が多い。
とくに時間に関する考察は、鋭くて示唆に富んでいる。

パスカルは言う。
われわれは現在に安んじてはいないと。
未来が来るのが遅すぎると感じて未来を予測してみたり、
ぎゃくに時間の流れが速すぎるので、過去を呼び止めようとする。

『その結果、わたくしたちは自分のものではない過去と未来の中をさまよい、
わたくしたちに属する唯一の時間についていささかも考えないことになる。
またこうした努力はじつに空しいものである。

断章172』

現在の自分を振り返り、恵まれたことがらを感謝するような瞬間が、
いったい人生の中でどのくらいあるだろう。
このすばらしい現在を呼び止めておきたいと思う瞬間が、
人生でどのくらいあるだろう。

自分たちは、いつも未来の目標とかそれらの達成とかで頭がいっぱいで、
それに向かって努力することが善だと思っている。
周囲にも、子供にもそのことを勧めて、何の疑いも持たない。

あるいは過去の失敗や苦い思い出にとらわれて、
あのときに別の選択をしていたならば、
今の人生は変わっていただろうと悔やんでいる。
それは本当のことなのだろうか。

パスカルが指摘するように、ただ現在にドスンと座り込み、
現在をじかに生きる感覚から逃げているだけなのではないか。
はたして、現在に安んじて自分たちは生きている瞬間を持っているのだろうか。

目の前の目くらましや刺激に振回されて、
なんだか日々バタバタやっているけれど、
これじゃ酔生夢死で終わってしまうのではないだろうか。
こんな現在を繰り返して、過去の地層が蓄積されるとしたら、
スカスカの人生ってことになる。

(2014-01-30 SNS日記より)

神学者にのしかかる難問 [キリスト教]

神はいるという信仰の立場に立つ神学者にとって、
答えようもない難問がじつはある。
若いころ読んだ、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』にも
その一端が出てくる。

単純な言い方を許してもらえるならば、こんな疑問がそのひとつだ。
この世と道徳をつくった神が実在するならば、
世の中に横行する悪事や蛮行や残虐な殺戮などが
なぜ起きるのか。なぜ許されているのか。
カラマーゾフの兄弟に出てくる例としては、
微笑む幼児の殺害(もっと具体的な事例として表現されているけれど、
書くに耐えないのでこのくらいで・・・)などだ。

この罪のないと思われる人々のこの苦しみは、
どのようにして贖われるのか。天国にておこなわれるのか。
なぜずっと後になって贖うような面倒なことをするのか。
なぜそのときの蛮行をとめることは為されないのか。
あるいは、天国の贖いは無いのか。

ようするに神はこの世の中で、なんらかの行為をするのか、
あるいは沈黙する神なのか。ルルドの奇跡のように、
ときどき現れては不思議な現象を起こし、
必要なときには隠れてしまう(不在)のか。

このような疑問の数々だ。
それに対するまともな答えをいまだ聞いたことが無い。

カラマーゾフの兄弟のうちのイワンは、このような疑問への答えがない限り、
神を信じたくとも信じることは出来ないという無神論の立場をとる。

その疑問への納得を優先しているが、
じつは大いなる存在の世界のことがらは、人間には理解できないのだ
という立場もある。ならば何が起きても、それを受け入れるだけの
下等な存在ということになる。
そんな奴隷のような存在を神は作りたかったのだろうか。

神が第一原因として宇宙をつくり、それ以降は自然法則に任せて、
一切手出ししないという「理神論」という考え方もある。
どんな悪事がおこなわれようが、それを救い出す神の手は現れない。
地球が滅びようが、神の沈黙は続く。
第一原因を作ったのは、間違いだったということになる。
しかし、この立場は、科学者にとってはきわめて同意しやすい
(ほぼ同一な)考え方だろう。

これら問いは、何十年と自分のなかで開いたままだ。

(2014-01-23 SNS日記より)

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