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辻征夫さんの詩 [文学]

二十歳代のころから読み続けている辻征夫さんの詩。
数えてみれば40年近くになるわけだが、それで何かわかったのかと聞かれると、
やはりわからないと応える。たぶん、これからもわからないままだ。

辻さんの詩の言葉はやさしい。
しかしやさしい言葉で、ああわかったと思えるわけではない。
言葉がわかっただけでは到達しえない詩の空間を
あらわそうとしているともいえる。

辻さんの『春の海』という詩の中の一節は、
妙に記憶にのこる。抜粋だが、こんな感じ。

・・・・・・・・・・・・・
山の奥には
フールスという村があり
そこへ行けば
なぜ鴉は啼くか
わかるらしい
(山の
フールスへ
行ってみてごらん)
隣の子供がうたっている

(引用ここまで)
・・・・・・・・・・・・

フールスという言葉で、
(詩の空間にある)
未知の村を訪れた気がするのだ。



自分にも似た経験がある。
ふるさとという童謡唱歌のなかの、

うさぎ追いしかの山~

という一節は子供の自分のなかで、
いつもこう響いていた。

うさぎ負いしかの山~

そして、うさぎをねんねこに背負って
ふるさとの山を歩いている子供の映像が
思い浮かんでいた。

長ずるにつれて愚鈍だった自分もあるとき、
うさぎを追いかける、という意味だったと悟った。

しかし、ねんねこにくるまれているうさぎの姿は、
自分のなかでは消えない。

この歌を聴くたびに、
ねんねこから長いみみがはみ出して、
気持ちよさそうに寝ているうさぎがいる。

詩とともに生きる [文学]

まだ学生だったころに、数人の仲間と詩の同人誌を立ち上げた。当時はまだ、ガリ版という手書き原版をもとに、一枚一枚刷り上げる手間のかかる手段しかなかった。それでも熱意を持って10号近くまで発行した。

この雑誌を母体として、いまも活躍されているAさんや、4年前くらい前に惜しくも亡くなってしまった同人のF君など、それぞれ人生において詩をかかわりを持つ人々を生み出したという経緯がある。

どちらかというと自分は、編集という仕事(?)に面白さを感じていた。原稿を集め、レイアウトを決め、手で刷り製本するという作業が面白かった。詩を書く方はあまり力が入っていなかった思いがある。

でもなんだかんだと詩をあまり書かないまでも、詩は読み続けてきた。なにがそこまで詩に惹きつけられ続けたのだろう。
考えてみると、詩という表現形式で書かれたものによる魂の浄化というか救いというか、なにかそのような作用と無縁でない気がする。

過去に地方の文学賞に何度か応募をしたことがある。最終選考には残るのだが、賞をもらうところまで行かなかった。選者の評が新聞に載っていた。言葉がまだ自分のものになりきっていなくて、ふらっと書いた印象というような詩人の言葉があった。

その意味は今はよく分かる。言葉は肉体と無関係ではありえない。肉体から遊離した言葉は、極論すれば生きていないのだ。詩とともに生きていないと言葉はうつろになる。

先日プリズム会員との交流会で朗読した未発表の詩は、これまでにないスッと心に響くものがあると評された。この頃に書いたものは、あまり奇を衒わず流れるままに書いていたようである。

ただ、だらだらっと書いているだけでいいのかとずっと考えてきたわけだが、その方が自分らしい表現だとするならば、それを突き詰めるのもひとつの道だ。

未発表の詩を1編載せてみる。
10年くらい昔に第1稿を書き、先日少し手直しした。

※※※※※※※※※※※※※※※※

『夜空』

やさしさは
弱さだろうか

やさしいことは
人間の弱さにしかすぎないのだろうか

やさしさは まず
受けとめることからはじまるだろう
そして待つことでもあるだろう

人のうしろにまわって
損な役割りをもらうこともあるだろう
重荷だって背負うかもしれない

目立たず 格好よくない
繊細で おとなしくて
雄々しい感じじゃあない

そのことは
気持ちの弱さなのだろうか
性格が弱々しいことなのだろうか

そうならば こころをオニにしようか
相手が何を願っているかなんて
踏みにじって
イスを蹴飛ばして
外へ出ようか

夜空には
銀河さながら 無数の光が満ちていても
星たちのまたたきを背に
肩をいからせた
一匹のオニになろうか

(了)

(2013-10-03 SNS日記より)

いつも、ヤな時間なんだよね [身辺雑記]

昨日は、地域のナイターソフトの最終戦が行われた。
その名を「竜東シリーズ」と言い、竜東一のチャンピョンを決める戦いだ。
(竜東の意味は、天竜川の東側の地域を総称して呼んでいる)

自分は(もちろん)選手ではなくて、来賓としての出席、
観戦であるが、何がいやといって来賓代表の挨拶(祝辞)を
述べなければならない。

とてもじゃないが、いつもこういう役回りは、自分の性に合わない。
だって人前で挨拶するなんてことは、昔から大嫌いだ。
何を語るかを考えると、おちおち夜も眠れなくなる
(でもたいてい疲れて寝てしまう、そして直前に慌てる)。

人から見るとそれでも、落ち着いてしゃべっているように見えるらしい。
落ち着きのある物腰がいいですねぇ・・・なんておだてられる。
とんでもないことである!

でも主観と客観とは、かくもちがうらしい事はこのごろ分かった。
内心どんなに慌てていても、ゆったりしゃべると外見上は落ち着いていると
見えるらしい。ならば、その外見に頼って安心していればいいじゃないかと思う。

でも内心はやっぱり内心だから、ハラハラして安心しているわけにはいかない。

むかし、有名な舞台女優の方の本を読んだ。
舞台初日は、緊張のあまり指が震えてしまうほど舞い上がり、
食事ものどを通らないとのこと。
相当な年配になっても、それは変わらないのだと。
人前の演技を本職としているウン十年のベテランですら、
そうなのだから、竜東シリーズくらい仕方ないか。

手のひらに人と書いて飲み込むといいとか、
いろいろな方法が提案されているが、いやなものはやはり、いや。
楽になる方法は無いものだろうか?

(2013-09-21 SNS日記より)

ほんとうに楽しかった夜 [身辺雑記]

先日、37年ぶりに詩の友人(先輩)と再会しました。
その方は、埼玉で詩誌を主宰していて、
いまやその詩誌も全国区になりつつあります。

同人の中には、詩集を出している方も多く、
最近新人賞をとった女性の会員もいらして、
会は盛り上がっている様子です。
また、『詩と思想』という雑誌の来月号に、
このグループの特集が出て紹介されます。

じつは自分もこの詩誌の同人(会員)ですが、
自分だけ長野の遠地にいるため、先輩以外の方はあまり面識がなく、
作品の上でしか知らなかった状況でした。

そんなところへ、先輩が同人3人を連れて、
長野は駒ヶ根に会いに来てくれたということです。
私の水彩画などを原画で見たいという希望もあったようでした。
(詩誌の中扉に絵画の提供をずっとしてきたことがあります)

お店に展示してある絵画を見ていただきましたが、
直に触れて涙ぐむ方もいました。
その後、宿泊する宿の部屋で、おのおのの自作詩の朗読会。
もちろん酒を酌み交わしながら詩論や芸術論を交わしました。

何年ぶりでしょうか、いや何十年ぶりに、真剣に議論し、
響きあう言葉の心地よさを味わいました。

言葉にいのちを吹き込もうとする仲間同士だからでしょう、
地位や年齢など世間的なことはいっさい無関係です。
こういう経験をずっとしてこなかったのだと気づきました。
これまで、惜しいことをしてきたのです。

(2013-09-18 SNS日記より)

うさんくさい本を読んでいます [いのち]

店頭で立ち読みしているうちに、どうしても読みたくなって、
買ってしまった本。今読んでいます。
表題が、『あの世に聞いた、この世の仕組み』
著者は、雲 黒斎氏(うん と こくさい を離して読むらしい)

ウツにかかってしまった著者が、仕事を休み、治療薬を飲んで
朦朧としているうちに、ある日聞こえてきた守護霊の声。
しだいにコンタクトを深めていき、この世の仕組みを解説されるというお話です。

ときどきこの手の本が欲しくなる体質が自分にはあるようで、
別に普段はオカルト好きではないのですが、こころが求めるというのかな。

生死の問題とか、生命とは何ぞやというような疑問が根底にあるのだろうと思いますが、もともとエンジニアでうさん臭いものには抵抗があるはずです。でも読んでしまいますね。

守護霊さん(これが雲さん)の言葉で、新鮮だったのは、
生命はみんなでひとつなんだという言明です。

Aさん、Bさん、その他動物などは、ほんらい別々の存在ではなくて、
全てこれらはひとつの生命が、現世に現れ出ている突起
(水面から出てきている存在)なんだと。
つまり根っこではみな同じ生命のなかでつながっている。
いのちは一個なんだという話です。

みょうにこの説明は説得力があるように感じました。
突拍子もない説ですが、しかしそう考えると納得のいく話があるからです。

昔から不思議に思っていることがあります。
AさんとBさんがなぜ話が出来て、共通の理解ができるのだろう?
Aさんの言っている赤と、Bさんの赤が、なぜ一致しているのだろう?
なぜ月がそこにある(実在している)と、みんなが了解しているのだろう?

哲学の認識論ですが、カントの純粋理性批判などがこの問題に
切り込んでいます。で、カントは、物自体は分からないのだとしてしまった。
人間の理性の構造がそうなっているから理解可能なのだという結論になっています。

なぜ人間の理性の構造が同じなのかと、さらに問い詰めることも
出来るのですが、その答えはあまりはっきりしていないのです。

もし生命がひとつで、AさんもBさんも、同一ならば、
理解の仕方が一致するのは当たり前になります。

ひょっとして人類の知恵が進化すると、これが真実となるかもしれない
という気もします。でもそうとうに、うさん臭い説です。

死ぬとは、レンタルしていた肉体の契約期間が終了しただけなのだ
という説明も出てきます。そして元の大きな生命体にもどる。
終了したのに現世に未練があって、
帰ってこない霊もあるという話もでてきます。

この世とは、魂を純化させていくための学校なのだという話も。
生まれるに際しては、学習プログラムをちゃんと制作してから、
この世に出てくるのだけれど、おぎゃーと生まれてくると、
みなそのことを忘れてしまう。
まあ、悟りを開くとは、これを思い出すことに相当します。

じつはこの本の続編も出ているようで、
このままだと続編も読んでしまいそうな勢いです。

(2013-09-09 SNS日記より)

暗証番号 [身辺雑記]

父親が亡くなって8ヶ月。
母親は昨年暮れに他界した。
父母の納骨を一度に済ませ、遺産分与の話を、残った親族の妹とすませた。

遺産を調べるために、保険やら郵貯の口座とやらを調べた。
わずかだが現金と、土地家屋が残った。
じつは隠れ借金がのちに出てくることを恐れていたが、
それはなかった(と見ていいだろう・・・)。

父親とはずっと確執があって、成人してからは生涯で数えるほどしか
顔をあわせていない。もちろんというか、はらを割って話したことはない。
だから晩年にどんな思いで、なにを考えていたかは分からない。

葬式の際も、こういうことは語弊があるのだろうが、
まったく感情が動かなかった。
やっと終わったという感じだけが沸き起こった。

もうその理由を言ってもいいだろうと思う。
自分の幼少時代から虐待とネグレクトの存在があった。

子供時代は殴られることはあっても、抱かれた記憶がない。
ただ親戚や友人が家を訪れた際には、
奇妙にひざの上に載せられたことがあった。
写真を撮るためだ。

高校生になってから家出をした。
しかしお金が続かず、家に舞い戻った。
少しこのときに親は反省した素振りがあった。
しかし決定的に心は離れている親子だから、
同居が苦痛だった。

でも、そんなことはもういいと思っている。

葬儀の後に、遺産を調べていく過程で、
父の郵貯の通帳がでてきた。しかし暗証番号がわからない。
たぶんということで、父親の生年月日や母親の生年月日ぐらいに
しているんじゃないかということで、入力してみた。
しかし試みは失敗した。

妹の発案で、兄(わたくし)の生年月日なんじゃないのと言い出した。
試してみると口座は開いた。
なぜオレの生年月日を・・・
今となっては調べるつてもない。

(2013-09-06 SNS日記より)

『努力は、人を裏切らない』 [学ぶ]

表題の言葉が好きだ。
誰の言葉か分からないが、年を重ねるほどに、
その重要性を感じる。
若い頃は、ずいぶんと才能を気にしたように思う。
でも結局のところ、努力とその継続がものごとの成功を
決めているように思う。

ある本に出ていた例だが、こんな調査結果がある。
認知科学者のエリクソン博士は、ウェスト・ベルリン音楽アカデミーの
先生に依頼して、将来有望と思われるバイオリニストの
名前を挙げてもらい、彼ら学生の何が有望たらしめているのかを調査した。

そうしたら才能ではなくて、自分ひとりで行っている練習量であることが
分かったという。普通の学生は、一日平均で1.3時間。
有望な学生は平均で3.5時間だったそうだ。3倍近い開きがあるのだ。

イチローは華々しい話題に囲まれているが、その練習量たるや半端じゃない。
生活の全てを律して野球にささげている姿が浮かんでくる。

天才と呼ばれる人は、さも才能でヒョイヒョイと業績をあげたように
思われている。しかし努力家でなかった天才はいないと思われる。

それに天才たちは、自分がこれほど練習しているということを言いたがらない。
その理由は、言うべきじゃないと感じているというより、
そんな努力は当たり前でしょ・・・と思っている様子なのだ。

自分はこれほどやっていると口にする人がたまにいるけれど、
その努力とやらを訊いてみると、唖然とするくらい貧しい練習だったりする。
それじゃあ、目が出ないのも当たり前だなと、失礼ながら感じてしまう。

努力というからには、人が聞いてあきれ、驚き、度肝を抜かれる
レベルじゃなければ、あまり人に言うべきじゃない。
寝る間を惜しんで努力するというけれど、
すごい人は一日3時間睡眠だったりする。
(中村メイコさんはこのくらいの睡眠時間だそうだ。自分はせいぜい5時間。)

努力して積み上げたものは、なくならない。
それを信じきっているのが天才たちだろうと思う。
少なくともあるのかないのか分からない「才能」とやらを当てにするよりは、
はるかに確実な道だ。

あのとき努力を続けていてよかった、
それが今生きていると感じる瞬間がかならず訪れる。
人生でいちばん豊かな気持ちになれるのは、これまでやってきたことが
間違いじゃなかった、つらかったけれどやめなくてよかったと振り返る瞬間だ。

(2013-09-05 SNS日記より)

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