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達磨安心という逸話 [禅]

以前の日記にも記した気がするけれど、
ボクの好きな禅の逸話を改めて振り返ってみた。

達磨大師が仏教を伝えるためにインドから中国にやってきて、
最初に得た弟子が二祖慧可という方。
といっても面壁九年といわれるように、真剣なる弟子が現れるまで、
ただただ洞窟で9年も座禅を組んでいたという話だ。
手足が腐ってだるまさんになってしまったと言うのは、
たぶん後から付け足された逸話だろう。

慧可という人は心が不安で仕方なく、それを克服するための
方策を何年も模索してきた。でもそんな方策にめぐり合うこともなく、
ようやく師と仰ぐ達磨大師に問答をすることができた。

達磨大師の答えはきわめて単純だ。
「不安のこころを、ここにもってこい」と一言。

この手の問答は、禅師がよくやる手だ。

大燈国師を、ときの天皇がぜひ召抱えたいと、
探せと命じた。なにせ20歳で悟りを開いて、その後
京都の市内で何十年と乞食にまぎれて暮らしていたらしいのだ。
好物の瓜をえさにすれば、見つけられかもしれないと
瓜をふるまうとお触れを出した。その結果、乞食がたくさんやってきたが、
それらしい人物がいたので、問答をする。
「手を使わず、瓜を受け取れ!」と
難題を吹っかける。
すると即座に
「手を使わず、差し出せ!」と応えたので、
すぐ大燈国師だと見つかってしまった。
そんな話が伝わっている。

さて、達磨大師が不安なこころをここに持って来い!
と言ったときに、ほんらい無いものを出せと命じたのだ。
慧可は、不安というものが実体としてあると思っているから、
それから必死に不安のこころを捕まえようと努力する。

ついに不安の実体を捕まえることが出来ずに、
ギブアップ。この間、何年も努力したかも知れない。
ついに見つかりませんでしたと、達磨禅師に告白する。
達磨禅師は、ただ一言、
「たったいま、不安のこころを安心させたではないか!」

あまりに問答が簡潔なので、その間の思考のやりとりを補完する必要がある。

慧可は、不安のこころがどうしても見つからないと言った。
それは不安という状態はたしかにあるけれども、
実体として不安が転がっているわけではない。
こころの作る影として、喜びがあったり、悲しみがあったり、不安があったりする。
でもそれぞれ実体は無い。こころはよく転々として、とどまるところが無い。

その仕組みが分かってしまえば、不安に虜になることはない。
自分の心は、不安に凝り固まっているということはない。
そうなるとしたら、自分が好き好んで凝り固まっているのだろう。
こころに色は無いというのが本当のところ。

不安を克服する方法などと言うものも、まやかしだということになる。
そんなものは、まぼろしで、実体がないからだ。

ある意味、幸せになるゴールデンルールというのも、
眉唾なところがある。こころに色があってたまるか、という感じに近い。
幻を求めて、幾年月ということになりかねない。

(2014-03-04 SNS日記より)

ペンフィールドの結論 [科学・技術]

カナダ人神経外科医ペンフィールドは、モントリオール神経学研究所の初代所長になった頃は、唯物論者だった。
精神とは、脳の活動が生み出したものに過ぎない、という見解に立っていた。

彼は脳のマッピングというものを作った。脳地図とも呼ばれるこの図は、脳の各部位が身体のどこを制御しているものかを描き表したものだ。よく脳の表面に手や目などのイラストが描かれた図をご覧になった方もおられるだろう。

てんかん患者の脳のあちこちを電極を用いて刺激して、身体のどこに変化が現れるかを、詳細に調べたのだ。こんな調査を数十年行ったというから、その徹底振りは並ではない。

その中で、電極刺激によって反射的な肉体反応が現れたり、感覚が生じた。幻覚作用も引き起こされ映像を観ることもあったようである。脳には痛感というものがないため、患者は覚醒したまま、マッピングの調査を受ける。

最も興味深く思うのは、その調査の過程で、患者はいつもはっきりと自覚していたそうである。電気刺激で身体が動いたりすると、今のは外部の刺激で動いたのだと。
自分の意思で動かす場合と、外部刺激で動かす場合が、はっきりと区別できたと告げたということなのだ。

ペンフィールドは、研究を締めくくるにあたり、こう述べた。
「意識、論理的思考、想像力、意志力といった高次の精神機能は脳が生み出したものではない。精神とは脳と相互作用する、非物質的な現象なのである。」

もし脳という器官が、精神を生み出しているとするならば、電気刺激を受けて動きだした脳は、その起動した原因を自覚できない。外部からの刺激だろうが自発的な意思であろうが、脳の中でおきる電気パルスの行き交うさまは、まったく同じものであるはず。
唯物論の立場では、電気パルスの交錯するプロセス以外は、脳内には何も無い立場だから。

外部刺激ではなく自分の意思で身体を動かしたり、考えたりする世界(つまり精神と呼ぶもの)が、明確に自分のなかに内在しているという自覚、つまり自己の存在というもの、ここにポイントがある。自己はどこにあるのだろうか。

唯物論者として脳の機能を解明するという大きな仕事に取り組んだペンフィールドが、晩年に得たもの、それはまことに皮肉にも、その正反対の結論だった。

(2014-02-28 SNS日記より)

われ思う、ゆえに・・・ [思想]

デカルトって変な男だと思う。
われ思う、ゆえにわれあり、という言葉で有名だ。
しかし、物質と精神は別物だ(物心二元論)と決め付けたことでも知られる。

デカルトが生きていた時代は、スコラ神学が衰退して、時代の流行として懐疑論が蔓延したらしい。そこで確かな学問を基礎を築こうと、いろいろと考察しているらしいのだが、訳のわからない神の存在証明などもして見せている。

このところうつらうつらと考えているのは、われ思う、ゆえに・・・の言葉だ。

デカルトの論理は以下のようだ。
自分の感覚は、間違っているかも知れない。だから見えるものや、触っているものは、ほんとうは騙されているのかもしれない。意地悪な悪魔が、そのように錯覚を起こそうとしているかもしれない。

しかしいくら疑っても、その疑っている自分自身は、まちがいなく存在する、と論を進める。疑っている自分自身が、本当はないとしたら、疑うことすら出来ない、あるいは疑っていることも夢になる。あるいは自分が消滅してしまう。

これは確かにそうなのだけれど、それだけのことでもある。なんら価値を生まない思考だと思う。だって、自分はここにいます、と証明したところで、それが何?という感じだ。なぜこの言葉が有名になったのか、不思議でならない。

ま、それはともかく、自分がまちがいなく存在しているとして、目の前にある事象は、存在するのか?という疑問がつづく。デカルトは、事象は空間の広がりの中にある実体であり存在するとした。そして自分を含む精神とは別物の実在であるとした。

その根拠はよくわからないのだが、そうした。
それが後に、かたや唯物論を生み、かたや唯心論を生んだ。罪作りだよね。
根拠についてしっかり考察して、事象は実在すると言って欲しかったと思う。

ところで、ボクは唯物論の立場に立たない。
というか唯物論は、未完成で仮説に過ぎないと思っている。人間の脳が、高度なコンピュータであるとしても、そこから、「われ思う・・・」という意識が、生まれる仕組みを解明していないからだ。

想像力や知性や愛情というものが、いかに機械から生まれうるのか?どんな風に精神活動が、機械からほのかににじみ出てくるのか?機械がどのようにして、われ思う、と自認するのか、そしてゆえにわれありと表明するのか?

脳の中のニューロンの結合が、ある日自立的、有機的に複雑に結合して、それはなしえるのだろうか?

いまだに物心二元論は、根本解決をみていない。
もし唯物論の言うように精神も機械の生み出す機能に過ぎないということが証明されたら、すごい人工知能が生まれるだろう。だがそれは当分(かなり無限に近い当分)やってこないと思っている。

(2014-02-20 SNS日記より)

あくなき探究心こそ上達の源 [科学・技術]

上達の技術の続々編です。

何ごとでも、やる気があるかどうかが大事ですが、
脳の中の神経回路に、このやる気に関連する回路が
2つあるのだそうです。
A6回路とA10回路というのだそうですが、
それぞれ「やる気のハイウェイ」、「快感のハイウェイ」とも
呼ばれています。

A6回路は、大脳の広い範囲にまたがって走っている神経で、
好奇心、創造性、集中力に関係していて、ここが失調するとうつや神経症になるとか。

普通の神経回路は、それが興奮するモードになると、
沈静化する別の神経回路があって、興奮を抑制するという拮抗する仕組みが
出来ているのに対して、面白いことにこのA6回路には、抑制する神経がないということ。
つまり興奮しっぱなしで、止まらない。

なんとなく納得の方もいらっしゃるのではないでしょうか。
(自分の場合、この止まらない感じはわかります)

A10回路の方は、人に限らず動物も持っている快感の神経回路ですが、
人の場合はA6回路の好奇心と結びつくことで、劇的に進化してきたとのこと。
つまり創造的なことがらや、好奇心などを働かせるときに、
強くそれが快いと感じる仕組みなんですね。

この好奇心というものを働かせ、特定のテーマに集中させ、
深く突き詰めて考えるのが探究心で、この探究心を絶えず燃やし続けているのが、
イチローなどの一流選手だそうです。

つまり、好奇心から探究心が生まれ、そこから創造性が発揮されると、
快感物質(ドーパミン)が放出される。
そのドーパミンがまた好奇心を駆り立てるというサイクルがあって、
これが回りつつ上達していくということみたいですね。
探求していく姿勢が、上達の鍵ということでしょうか。

こうしてみると、どうも能力とか才能とかの要素は、
あまり入ってこないですね。
こだわり続け、探究心を燃やし続けられる能力が、
才能の正体なのかもしれません。

(2014-02-07 SNS日記より)

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