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『かならずやります』 [日常]

曽野綾子さんの『人間にとって成熟とは何か』を読んでいる。
新聞に重刷ができたと宣伝されていた。それは知らなかった、
読まなくちゃとすぐ買った。
昔から曽野綾子さんの本の(おもにエッセイばかりで失礼なのだが)
愛読者のひとりだ。

深く同感する文章に出会った。
++++
「頑張ります」も「必ずやります」も、実は若者の言葉だ。
もっとも私は若い時から、そういう言葉を使ったことがない。
希望としては頑張りたいのだが、自分の心身が
それについていかない時点があることをよく知っていたからだ。

第十章 辛くて頑張れない時は誰にでもある p.138
++++

実は自分も若い頃から、「頑張ります」という言葉を使ったことがない。
これから未来のことを必ず実行すると誓うことにどうにも抵抗感があったから。
簡単に思い通りに、ものごとが行ってたまるか、という反発心もあった。
事実、自分の幼少から少年時代は、苦境に立たされることばかりで、
自分の実力が知れたものだととっくに分かっていたし、
世の中はそんな簡単で甘くはないことは骨身にしみていた。

「努力いたします」という答弁に、必ずやれ!というような叱責が飛ぶことがある。
でも努力するという約束の方が誠実で本物の答えだ。
必ずやれとは、何ごとかと思う。そんなに世の中を単純に考えてきたのかね?
あなたは予定通りものごとを成し遂げてきたのかね?
と聞き返してやりたいと思う。

若者の言葉として、挨拶程度に使われることが多い。
でもいい大人になったら、言葉の戯れはやめたい。
言葉のもてあそびから問題点の実態や、
真の解決が生まれてくるとは思えない。
自分は弱い無力な存在で、困難に負けてしまう可能性だってあるのだという自覚が、
どこか頭の隅に必要なのだと思う。

(2013-08-21 SNS日記より)

一度もなかった! [健康]

自分は心配性で、いつもあれこれと考えすぎたり悔やんだりして、
家内に笑われる。

考えすぎだよ!
そんなことまでキミは心配しなくていい!

会社で働いていたころもよくこういう言葉を浴びせられた。

思うに気質のせいだと思う。
実の妹はウツで長年苦しんでいるし、
亡くなった母も若い頃、ああ憂鬱だ憂鬱だと、
よく嘆いていた。

考えすぎて頭痛がすることは日常茶飯事だ。
しかし、その心配クセは一生已まないのだろう。



DNAが2重螺旋の構造をしていることを突き止め、
ノーベル賞をもらったワトソンとクリックという天才科学者がいた。

このクリックという科学者は、英国でダーウィン以来の
天才といわれた才能豊かな人だったらしい。

晩年は財産も地位も名誉も得て、何不自由ない生活を送ったとされている。
彼が亡くなったあと、秘書が遺品を整理していたら、
デスクから小さな紙片がでてきた。

その紙片に書かれていた言葉:
「自分はこれまで、これが起きると困ると何度も心配することがあった。
しかし実際に起きたことは一度もなかった」

偉大な科学者となったクリックでも、晩年に至るまで、
クヨクヨと考えては机の紙片を取り出し、
書かれた言葉に勇気付けられていたらしい。
その姿はどことなく微笑ましく感じる。
とともに勇気をもらう気がする。

(2013-08-05 SNS日記より)

宇宙には意志があるのだろうか [宇宙]

大型店の本屋さんのなかに、古本コーナーができて、そこはちょっと楽しい空間になった。
このごろ新刊本でなければならない理由も薄れていて、古くてもかまわない。

桜井邦朋さんという方の書いた『宇宙には意志がある』という本に興味を惹かれ読んだ。
著者は元NASA主任研究員、神奈川大の教授という肩書き(当時)。

ざっと要約してしまうと、現在人類が生存しているこの地球やその環境を作っている条件を、
いろいろと科学的、かつ宇宙的規模で考察していくと、どうも地球が現在の形で存在し、
人間が生きているということは奇跡であり、とうてい偶然の産物とは思われないということだ。

ビックバンの直後に、陽子、中性子、電子が結びついて、最初の元素の水素や
ヘリウムなどが形成された。この結合に不可欠な電気的引力を決めている定数が、
ほんのすこしちがっていたら、現在の元素類は形成されなかった可能性があるというのだ。

動物や人間を構成しているたんぱく質は、炭素という4つの手を持つ中核元素が
中立ちとなってできている。複雑な分子が次々と構成される骨格となる元素だが、
もし炭素が形成されなかったらいまの動物は存在すらない。

よく言われるように、太陽から地球までの絶妙な距離があったからこそ、
海洋が生まれ大気ができた。金星でも火星でも生物は存在できない。
地球は絶妙なバランスの上に成り立っているということになる。

いまのわれわれを成り立たせている条件を探ると、偶然の重なりがあまりにも多すぎる、
なのでこれは宇宙の意志があるのだという趣旨だった。

宇宙の意志とは、知的生命を生み出し、宇宙自身を探求し認識するような
知的生命体を生み出す運動だという。そのために160億年の時間を待ったのではないか・・・

米国の宇宙論学者のディッキーという人は、宇宙は人間の出現のための
お膳立てを作り出して来たという『人間原理』と唱えているとのこと。

ボクにはその真偽は分からないが、どことなく中世を支配していた『天動説』が、
ここへ来て復活するのだろうかと、思った。宇宙動説ということになるのだろうか。

ドレイクという人は、天の川銀河のなかに存在する知的文明の数を推定する
ドレイク方程式を提案した。これによると何万という文明が存在しても、
おかしくないとなるらしい。
人類はその中で、選ばれし文明となるのだろうか。

山口で起きた放火殺人事件や、島々の領有権めぐる準紛争を見るにつけ、
精神世界はこの何千年のあいだ進化したようには思われない。

地球規模の国家が形成されて、無駄な資源争いや、軍備競争などを
全部やめてしまって、理性的で合理的な尊敬に値する人類となるのはいつのことだろう。

(2013-07-27 SNS日記より)

うつ的気分 [健康]

気持ちが落ち込んでいるときってある。
何か失敗してしまった時とか、
嫌なことを人から言われたときなど、
気持ちがへこむ。

このへこんだ状態のまま、気分が回復せずに
固定症状化してしまうこともある。
この固定化というヤツはとても曲者だ。
たぶん気分と考えが、たがいに絡み合って、
スパイラルを描くように落ち込む方向へ作用する。

制御理論にフィードバックという方式があるけれど、
普通は、負のフィードバックの形が一般的だ。
車の運転をしていて、車の進路が道路から外れて行きそうになるとき、
外れていく方向とは逆の(負の)ハンドル操作(制御)をする。

負のフィードバックが働くということは、
目標の値があってそこへ合わせて行こうとする作用だ。
車の運転で言えば、道路の形状ということになる。

逆に正のフィードバックというものがある。
逸れていったら逸れた方向へますます舵を切っていくような動作だ。普通の世界では、この正のフィードバックは使われない。制御不能になるからだ。

じつはうつ的気分というのは、気持ちが、正のフィードバックの呪縛に陥った状態なんじゃないかと思う。

気分が落ち込むと、それに応じて行動が不活発になる。人と会話したくなくなる、あるいは会わなくなる。
自分の世界に閉じこもりがちとなり、そのことで、
世間から脱落した気分となり、またさらに気分が落ち込む。そしてますます人と会話をしなくなる。
この繰り返しだ。
ようするに気分が元の位置に戻る力学が働かない。

うつに陥っている人は、もう自分の世界から出てこようとはしない。徹頭徹尾、自分のこと、自分の気分に全神経が集中して、外界への関心というものが失われる。その状態が、また自責の念を生み出すという繰り返しとなる。

正のフィードバックループを、何らかのきっかけで断ち切ることができれば、スパイラルダイブから逃れられると思うのだが、そのちょっとした動作がものすごく重い扉になってしまう。

(2013-07-05 SNS日記より)

家庭環境とうつ [健康]

心の健康に関するコミュで、うつのことについてトピを立てた。実は妹は30年間うつにかかっていて、いまだに全快とはいえない。

その原因となったのは家庭環境にあるというのが、発病当時、診断に当たった医師の見解だった。なにしろ、妹の子供時代は(自分の子供時代でもあるが)、家庭内がメチャクチャな状態だったのだ。

親父はギャンブル狂いしていて、借金まみれ。サラ金などから金を借りてもギャンブルがやまず、とうとう家まで売った(取られたというべきか)。母親はパートやら内職やらの毎日で、平凡な普通の意味での育児とか教育とか家庭環境などがなかった。長男である自分は、母親からいつ別れるべきかの悩みの相談も受けた。

普通の意味での家庭の体をなしていなかったから、妹は自然と備えているべき自己信頼感や自信というものが育まれていない、そういう感じ。それは若干自分にも当てはまる。

茶封筒の督促状が自宅に配達され、借金の催促が勤務先にも行くようになって、にっちもさっちも行かなくなり、しまいには親父は仕事にも行かずに家で布団をかぶっていた。横で母親がおろおろしていのを記憶している。

家を売って借金を返す清算プランを立案したのは、父の勤務先の上司の采配だったようだ。悪い友達と悪い遊び場と縁を切り、けじめをつけるということで、親父は子会社に転勤させられ、単身赴任の身となった。

この頃から少し家庭内は、しばしの平穏な時代がやってきた。でも妹の中には、社会で自分の領域をきづいていく力強さや、いろいろなストレスへの耐性が欠けていたように思う。ある日、ぽっきりと心が折れる感じで発病した。

当たり前に備えているはずの自分を信じる力、あるいは自信というものが育たないことは確かだ。これは虐待を受けた子供たちも同じだ。

ついでに言えば、自分の置かれていた環境は、今流に言えば、虐待とネグレクトだったということを還暦になってから自覚した。それは家内の一言だった。普通の家庭というものを知らないために、自分の環境が平均値からどのくらい外れているかが分からない。

父母が昨年末から新年にかけて相次いで亡くなった。ようやく何かが終わり、こんなことも書けるようになった。
じつは父親の死後、大きな借金の督促が来るのではないかと、内心恐れていた。しかしそれは無かった。
とりあえず、よかったなぁ・・・としみじみ妹と話した。

2013-06-15 SNS日記より)

うつは病気なのか [健康]

何十年とうつにかかっている親族がいる。自分自身もかつて、疑われたこともあった。しかし、うつの人と接したりして感じるのは、うつは病気とは違うのではないかという思いだ。専門家の中には、最近うつは病気ではないという趣旨のことを言われている方もいる。

また、パニック症候群や統合失調症とかいろいろな呼び方の病名も最近よく聞く。電車やエレベータなどの閉所空間でパニックになるとか、不安発作を起こす、不潔神経症など、生活の場面場面で陥る状態に対して、いろいろな名称があるように思う。

肉体的疾患にたいして、精神的疾患というものがあり、その症状が習慣的になり、日常生活に支障をきたすということで、いろいろな病名がつけられるように思う。

しかし、誤解を恐れずあえて言うならば、精神の習慣的な傾向が望ましくない場合、その人は病気だと認定されるが、精神の「病気」とはいったい何なのだろう。精神というものは、病気に罹りうるものなのだろうか。

脳の機能に、通常とはことなる機能異常があるというのならばわかる。てんかん発作のように異常なつよい脳波が発生する発作がおきるというのならば。

不完全なパソコンソフトがあって、バグを抱えている。処理の途中でパソコンが始終止まってしまうような場合、これはメモリーを替えると直るとか、CPUを最新のものにすれば元へ戻るはずだと、ハードウエアの問題に帰着させているような感じがする。ソフトのバグを取ればいいだけなのに。

うつの治療法として認知療法があるけれど、これなどきわめて自然な治療法だと思う。どうも、うつという疾患があるとは考えていない。むしろ生活習慣からくる認識のゆがみに原因があると考えているようだ。

適切な喩えかどうかわからないが、人生には不安はツキモノだし、時にはあせって頭が真っ白になることもある。そんな事柄がおきたことにパニックになり、そこにこだわりを集中したら、それは外には出れなくなるし、ひどい場合は寝たきりになることもあるだろう。

人生は快適安心で、何事もうまくいくことべきだと思い込んでいるとしたら(まるで憲法に保証された基本的な権利なんだと考えていたら)、やはり人生うまくいかないだろうと感じる。人間同士が角を突き合わせて生きている。みんながみんな、快適で全部うまくいくことなどありえないと思うのだが。

(2013-04-06 SNS日記より)

好きな言葉 続き [禅]

(前日記の続編です)

不安で仕方ないこころを捕まえようとして、
さんざん苦労してみたけれど、
やはり捕まえられないというジレンマで
神光は切羽詰って、袋小路に入ってしまうわけです。

それなのに不安なこころが去ってくれないし、
心配や苦労が次から次へとやってくる。

これってほんとうに矛盾しています。
捕まえようとしても実体が無いのに、
苦しみだけはやってくる、
そんなのおかしいじゃないかと思いますね。

でもこれがわれわれのこころの実態なのだろうと思います。

神光がその苦しい心情を達磨に訴え、
ついに捕まえることはできませんでしたと告白したとき、
達磨は、いま安心させ終わったと宣言します。

これも大いに矛盾する話です。
いちばん苦しく追い詰められた状況にある
神光のこころを、救ったというのですから。

自分は禅坊主ではありませんから、
この話を勝手に解釈していますが、
神光はほんとうの自己に目覚めたのだろうと思います。
穢れなく、苦しみも無い、ほんとうの自己です。

このときの神光の言葉は伝えられていませんが、
「なんだ、そうだったのか、安心している自分が
もとからいたではないか。
苦しんでいたのはそういう理由だったのか。」
こんな感じだったろうと想像します。

臨済宗の始祖、臨済の有名な言葉に、
赤肉団上に無位の真人あり、
とありますが、これに通じていると思っています。

(2013-03-19 SNS日記より)

好きな言葉 [禅]

達磨安心(あんじん)という話が好きです。
禅宗の公案のなかに出てくる話しです。

達磨禅師が仏教を伝えるためにインドから中国に入りました。
時の皇帝に面会したところ、まったくその器でもなく、
機運もないと中国の田舎に引っ込んでしまいます。

その田舎の洞窟で、壁に向かってひたすら座禅をしていた。
面壁九年とはこのときのことを言ったものです。

そこへ神光という最初の弟子になる人がやってきます。
こころが不安で仕方ないという悩みをかかえています。
達磨に教えを請うのですがまったく相手にされません。
そんな、なまっちょろいことで仏教の教えなど理解できるものか!
と言わんばかりであったらしい。

神光は、片腕の肘を切断し、それを達磨に差出し、
こんなに真剣なのだと訴えます。

ここから修行が始まるのですが、達磨は問います。
何をそんな苦しんでいるのかと。
心が不安で仕方ありません。安心したいのです。
と応えます。

達磨の有名な応答が、それならその不安なこころを
ワシの前に出してみろ、そしたら安心させてやろう、
というものです。

そこで神光は不安の正体を捕まえようと、
たぶん何年間も苦労を重ねて追い求めます。
でもその結果は、否定的に終わります。

ついに達磨の前で、ひれ伏すように、
不安なこころがどうしても捕まえられないと
泣かんばかりに訴えます。
(おそらく泣いていただろうと想像します)

あらゆる追求、あらゆる努力、あらゆる修行を重ねても、
解決が遠のき、目処すら立たないとき、
人間の精神は極限まで追い詰められてしまうのです。
叩きのめされてしまい、目の前が真っ暗という経験はあるのです。

達磨の教えは、言葉ではあっけないほど簡単で、不思議なものでした。
「たったいま、お前のこころを安心させてやった」
この達磨の一撃で、神光は悟り(解決)を得ました。
禅宗の第2祖となった瞬間です。
これが達磨安心というお話です。

(2013-03-14 SNS 日記より)
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このところ失語症 [身辺雑記]

ホームページをつくったり、BLOGを書いたりといろいろとやってきました。しかし、このところ失語症に罹ったようで、言葉が出てこないです。いや言葉は喉まで出てくるのに、いろいろな反論やら反省の声が自分の中から湧いてきて、けっきょく面倒くさくなるというか、いわずもがなのことだ、ということになります。

思い当たるフシはあるのです。
長年、重石のようにのしかかっていた病床の母が昨年末になくなり、生涯にわたって確執の続いた父が1月に他界しました。1ヵ月半ほどの間の、あっけない出来事でした。

この趣味人倶楽部に再入会したのも、その後のことです。すこしは語る内容もあり、交流の場としていいのかもしれないという気持ちも作用したのですが、さほど単純ではないようだと悟りました。

あまりに個人的な事情が絡んでいたり複雑だったりすると、言葉は出てこないものです。もうすこし体験が浄化され、伝えるべき内容が煮詰まり、伝えるにふさわしい言葉が浮上してくるまでは、失語状態は続くのだろうと思います。

じつは若い頃、詩の同人誌を作ったりして、詩を書く友人との交流は長いのです。誘われて、下手な詩をある同人誌に投稿したりしています。

で、ふと気が付きました。今の状態は、詩を書く苦しみ(書けない苦しみ)によく似ています。ああでもない、こうでもないと、頭痛がするほど言葉の表現に悩みぬき、なにかピタッと来ない結末を迎えるのですが、それにそっくりです。

とつぜん天から言葉が降って来て、巫女さんのご宣託のように、よどみなく文章が書けたらいいのですが、そんなことは天才か狂人でなければ成しえないことなのです。

(2013-02-13 SNSの日記より)

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