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倦怠と気晴らし [思想]

パスカルがしつこく追求したのは、人生の倦怠と気晴らしだ。
この問題はとても根が深く、ある意味で永遠の課題である。
自分も若いころから、関心のあったのはこの点だ。
いやこの問題にずっと苦しんだと言っていいだろう。

この背景にあるものは、自我という存在を中心に
世界を考える世界観にある。
我を中心に据えると、人生の倦怠というところまで行き着く。

何ものにも規制を受けない自由な存在である自分を
世界の中心に置くことから、この問題は派生してくる。

神ならば孤独を感じることはないのかもしれない。
しかし人間の場合は、孤独である。

またそこに価値観が確立できない。
人間同士のルールを決めるという意味での道徳は生まれるのだろうが、
共通の価値観、守るべき何ものかという部分が欠落する。

争いはあるが、勝者は自我の存続を勝ち得ただけで、
ある意味、何もプラスの得るものがない。
敗者同様に、勝者もむなしいのだ。

パスカルは人生は悲惨という。
やがて死をもって終結する人生は救いがないという。

そのことをうすうすと感じ、人生の倦怠を味わいながら、
気晴らしというものに虜になる。

つまりは生きる意味づけというもののない人生は、
退屈にならざるを得ず、向かう先は気晴らしなのだ。

パンセの前半部分で、パスカルが描き出したかったのは、
そういう考察だったのだろうと思う。

(2014-01-22 SNS日記より)

パンセを読む [思想]

B・パスカルのパンセ抄訳本を先日から読んでいる。
若いころに興味を持って全巻を読もうとしたが、
通読にはいたらず途中で挫折している。

そのころ読んだ箱入り本が手元にある。
40年近い昔の本で、要所要所に線が引いてある。
でもなぜそこを重要と感じて線を引いたのか、
分からないところもある。

31歳でキリスト教に回心する出来事がパスカルの身に起きたらしい。
その後パンセを書くに至った理由というものがあるのだが、
今回再読を開始して、その背景が初めて分かった。

パンセという本は、書の体裁を成していない。
いずれ出版する予定で草稿を書きとめていたところ、
パスカルは39歳(訂正)で夭折してしまう。
そして膨大な断章が残された。

形を成さなかった書の目的は、人生の悲惨さを緻密な考察により明らかにして、
キリスト教への誘いをするという意図だったようだ。

その人生の悲惨さを明らかにする前半部分の
鋭い考察に、若いころ惹かれて読み始め、
還暦を過ぎてふたたび読み始めたというわけだ。

その論旨には、やはり深く同意するものがあり、
これは何十年と空白があっても変わらないとわかった。
パスカルという人物のすばらしさ、考察の深さを、
讃えたい。

パスカルは、人生は悲惨なのだと指摘する。
深く考察を加えるとそのことが明らかなのだが、
ただ世の中の人々は、その事実に目をそむけて、
気晴らしをしているのだと。

《ウサギ狩りと人間の本性》
変に哲学者ぶって、「買ってまでは欲しくないウサギを
追いかけ回して一日を過ごす人たちは、不合理だ」、
と非難する人は、わたしたちの本性というものをほとんど理解していない。
ウサギそのものはたしかに、わたくしたちの視線を
死や悲惨からそらせてはくれないが、ウサギを狩ることは、
わたくしたちが死や悲惨を直視するのを、ちゃんと妨げてくれるからである。

断章 139
鹿島茂 超訳 『パスカル パンセ抄』より

30代でこのような考察が出来たことに驚嘆するが、
人生における気晴らしというものを、
徹頭徹尾抉り出すように考察していく。
で、その先のあるものとは何かというと、
人生の倦怠なのだと論を進める。

人生の倦怠というものに気がつかず、
気晴らしの一生を送るのならば(送れるのならば)、
それはそれでいいと自分は思う。

しかし、ひとたびその人生の構造に、
気がついてしまったときから、
人生の苦しみ、悲惨さと向き合うこととなる。
360年も昔の天才が、その問題と格闘したのだ。

(2014-01-21 SNS日記より)

映画『ターミネーター』 [科学・技術]

未来のある日、機械が人間に反逆し、人間を抹殺しようと核戦争を挑む。それに対して人間サイドの抵抗軍が組織される。
なかなか人間を抹殺できない機械側は、殺し屋ロボットを作り、時間を超えて過去に送り込む。子供時代の抵抗軍リーダーを抹殺しようとする。この機械の殺し屋がターミネーターというわけだが・・・

続編のターミネーター2では、さらにリーダーを守るために未来から護衛ロボット(旧型ターミネーター)が送られてきて、殺し屋ロボット(最新型)と壮絶な戦いを展開する。
こういうSFものの映画は好きで、何遍も見た。

ターミネーターは、心を持たない。
プログラムされた指令どおりの行動を行い、リーダーを殺害しようとしたり、あるいは護衛しようとする。
続編で登場するリーダーを護衛する旧型ターミネータは、人間とともに行動するけれど、人間の涙の意味が理解できない。「目から水が出ているが何か異常なのか?」と訊くのが精いっぱい。

感情の世界とは無縁だし、そこに価値を置いていない。というよりも価値というものが理解できない。プログラムの優先順位がつけられ、それにそって動くだけなのだ。感情を理解する仕組みを持っていないのだ。

興味を惹かれる理由のひとつは、このような高度なロボットがいつか、自意識を持ち、自ら考えて、さらに感情を持つのだろうかという問いが思い浮かぶためだ。
この問いは、はたしてどういう結論を迎えるのだろう。

『アイ、ロボット』という映画では、ある日ロボットの脳の中で、いろいろなプロトコルが偶然に(?)、有機的に結びつき、自意識が目覚めるというストーリーになっている。

この話は、原始の海でコアセルベートが偶然に(?)有機的に結合して、最初の生命体が生まれた、という説にどこか酷似している。あるいはこの生命の誕生ストーリを下敷きにしている映画なのかもしれない。

そういう意味で、生命の起源と意識の起源は、とても似ている問題だ。そしてともに、科学技術の観点から説明しようとすると、偶然というものを仮定しないといけない。しかも極端に低い確率でしか起き得ない現象を仮定することになる。

以前の日記にも記したが、箱の中に時計の全部品をバラバラに入れておいて、ガサガサと箱を揺すっているうちに、何億年のうちに偶然ある日、時計が組み上がっている、というようなプロセスを想定しなければならない。そのくらい生命体は複雑な機構が有機的に結びついて機能している。

かといって、そこから神と呼ぶべき意思が作用したのかどうかは分からない。そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。それを表明するにはおのれの知識や見識や洞察力が低すぎると感じる。

それらをひっくるめて、自己を超えた大いなる存在を認めていると言えなくもないのだが、それは宇宙に対する感情も似ている。人間の理解のおよぶ範囲は限定されている。その限定された知識と推論のなかから未知の領域を想像しているわけだが、いつも新発見がなされるたびに、それらは想定外だったと思う。

(2014-01-14 SNS日記より)

怒りの感情 [人生]

自分は子供のころとても怒りっぽかったようだ。
かすかな記憶で、小学校時代から同級生ともずいぶんいさかいを
起こしたようで、怒りの相手をぶん投げたこともある。
怒ってはいけないのだと、大人から諭されたようだが、
相手が間違っていたら怒りは正しいと思っていた。

大人になって、すこしはマシにはなったが、
それでも周囲との摩擦を起こしてしまうところは
相変わらず。怒りの感情というのはほんとうに根深い。

犯罪の多くは、この感情を外に表出することで、
引き起こされることが多い。

怒りにとらわれた人間の理性は正常に作用せず、
日ごろ大切している価値観やその人の人柄よりも、
怒りの感情を発露(爆発)させることの方が、
はるかに重要で、緊急なことがらだと、
考えてしまう。

冷静になれば、なぜあんなことをしたのかと
理解しがたいことを、熱意を持ってやってしまうのだ。

感情の中で、怒りほど克服するのか難しい感情はない。
本能として、自我が脅かされるときに怒りというものが生まれる。
本能に根ざした感情なのだ。

国家間の戦争は、国民全体が怒りの感情に
飲み込まれて起きるともいえる。
軍備競争も、自らが脅かされるというその脅威に根ざしている。

だから怒りをコントロールできることが、
ある意味でもっとも尊敬に値することであるし、
人生修行の究極の目標でもあると思う。

ユニークな教えが聖書にある。

『自分で復讐してはいけません。
神の怒りに任せなさい。
それはこう書いてあるからです。
「復讐はわたしのすることである。
わたしが報いをする、と主は言われる」

ローマ人への手紙 12章19節』

怒りを神に預けてしまえ、神が鉄槌を下すであろう、
というような趣旨。
怒りを感じても、ここから先は神の領分で、
人間の口をさしはさむことではない、と諦める。

仏教ならば、怒りを滅するという言い方を
するんだろうなぁ・・・・

(2014-01-10 SNS日記より)

人生の意味 [人生]

昔読んだ禅の本に、こんな話が出てくる。

ある修行僧が、生きている意味、つまり人生の意味について悩んでいた。
悩んだ末に、先輩の僧に訊いてみた。
「人生の意味とは何でしょうか。」
その先輩僧は答えた。
「人生に意味はないんじゃ!」

2重の意味でいい答えだと思う。
人生の意味についてズバリ答えているとともに、
質問の僧の思いを、打ち砕いてしまうということで。

たとえば親切な先輩がいて、人生の意味はこうなんだよ、
これが生きている意味なんだよ、と教えてくれたとする。
ああわかった、その通りに生きようと納得して、
生きる意思を固めたとする。

この質問をした僧は、その後、幸せに暮らしましたとさ・・・
ということになるだろうか。教えられた人生の意味について、
さらに疑問が湧くに違いない。

人生の意味がどこかにあると思って、青い鳥探しにさ迷い出て行ってしまう。
自分の外側に、人生の意味が転がっていると思っている。
これにはきりがないということだ。

人生の意味を問うその問いかけは、答えの返ってくるはずのない虚空に
尋ねているようなもので、そこには答えはない。
しかし若いころは、この問に熱病にうなされたように
のめりこんでしまう(かつて自分もそうだった)。

現在の自分の気持ちに、いちばんぴったりと来る答えのひとつは、
ヨブ記にあるヨブの言葉。

『私は裸で母の胎から出てきた。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は取られる。
主の御名はほむべきかな。

ヨブ記1章21節 より』

これ以上の表現があるだろうか。
もし仏教者であったら、主の代わりに
縁というかもしれない。

どちらにしても、自分の考えや、自分の疑問が、
世の中の中心にあるわけではない。
中心でないものが、いくら答えを求めても、
答えをもつ方は他にいる。

自分が意味を持つのではない。
自分が意味を持たれるのだ。

このことが科学技術の進歩や
新しいものを追求することと矛盾するものでもない。
すべてこの視野の中に取り込まれているのだ。

(2014-01-09 SNS]日記より)

B・ジョセフソンの考える無神論 [宗教]

注文していた書籍、B・ジョセフソン著『科学は心霊現象をいかにとらえるか』が手元に届いた。
いろいろな場面で行った講演内容、投稿した論文の内容を編集した構成の本であった。

ジョセフソンはジョセフソン効果で知られる、量子物理学における著名なノーベル科学者だが、
いっぽうで心霊現象や宗教や東洋哲学にも強い関心を抱き、深い考察を加えている。

ランダムにあちこちの章を読み始めたが、そのなかで早くも痛感するのは、
科学的態度とは何かを踏まえた精密な論理だ。
とかく心霊現象を扱う本には、科学的な態度という点で、矛盾を感じることが多い。

無神論について、こんな言及をしている。

=======================================
科学者は宗教的な主張に対してどのような態度をとるだろうか。
最も極端な立場は、宗教の主張は偽であるとみなす「無神論」である。
しかし、神が存在しないことを示す科学的な証拠がないならば、
この種の見方は、科学的とは言いがたく、単なる「意見」でしかない。

B・ジョセフソン『科学は心霊現象をいかにとらえるか』
3-3 物理学と霊性「次なる大統一?」 p.183より
=======================================

きわめてシンプルに、無神論の論点を突いている。

無神論は探求をあきらめた末の断定の態度から生まれると、
以前より感じていた。神の存在についていくら追求しても、
はっきりした答えは生まれないだろうと思う。方程式を解くように、
きっちりと証明できる瞬間は訪れないだろうと思う。

では証明できないから存在しないことを意味するのかというと、それは早計だと思う。
せいぜい現時点では証明出来ないという表明にしか過ぎない。
存在しないことの証明は、とても難しい。
証明しようとする者が検証できる範囲は有限で、
無限にある可能性のすべてを検証するなどできない相談だからだ。

まして人知を超えた領域に関わる存在を、
どのようにして人間界における証明のまな板に乗せられるのだろうか。
まな板に乗るようなものは、しょせん人間界のものという感は免れない。

だから誠実な態度としては、ただひとつ。今時点で神の証明はできない。
しかし存在しないのだという無神論の主張も保証できない。
将来この証明が現れるかもしれないし、現れないかもしれない。
科学的な態度としては、これがギリギリの誠実さだろうと思う。
ジョセフソンの姿勢には、そういう誠実さを感じる。

****

先日読んだ本の中に、面白い紹介がなされていた。
ケプラーは惑星の運動に美しい規則性を見出した。
しかし、惑星同士がなぜ引付けあうのかに関するケプラーの考えは、
先駆者のギルバートの磁石説を踏襲していて、
つまり惑星はすべて磁石であり、引付けあっているのだと説明した。

ではなぜ、いつの日か磁石同士である惑星がくっ付くようにならないかという説明に、
ケプラーは、太陽から出る運動霊という不思議な存在があって
惑星を動かしているのだという。つまり磁石の力と運動霊の力から、
惑星の運動の定式化ができたとしたのだ。

いまわれわれが読むととても奇異な感じを受けてしまう。
でも大真面目に運動霊というものを考えていたらしい。

ニュートンにいたっては、このふしぎな遠隔力は神を示すものと考えていた。
じつは何も媒体のない中を伝達する重力は、
現在人が考えてみても不思議な現象である。

偉大な科学者といえども、必ずしも無神論にたって論を進めたわけではなかった。
不可知のものを前提にしてでもその定式化を試み、
神秘を明かそうと執念を燃やしたと見える。

無神論の主張も、この世界は物だけで成り立っていると
みなしたときに全てが説明できるのか、
壮大な仮説を立ててみた、ということではないのかと思う。

(2014-01-04 SNS日記より)

新年を迎えて [身辺雑記]

住んでいる駒ヶ根市の外郭団体に、市の活性化委員会というものがある。
最初は、駒ヶ根市にIターンした方の意見を、ということでゲストで呼ばれた。
しかしいつの間にか委員になっていて定例的に参加することになった。

それはともかく、昨年初の会合で、なにか年頭の決意のようなものがありますか
と聞かれた。これまでの人生で、ラッキーだったなという思いをしたことがないので、
今年はツイている年にしたいと答えた。

で、その結果どうだったかというと、地区の役が付いてきたり、
仕事上の責任が付いてきたり、年頭の誓いは多少は実現してしまう。

いよいよ新年を、迎えた。
今年の願いは、豊かな年にしたいと思う。
むろん経済的なこともあるけれど、
それより精神的に(心を)豊かに過ごしたいと思う。

昨年の日記で、日ごろ存在している奇跡のことを綴ったら、
強い反対意見もあって、なかなか思っていることが表現できていないと反省した。
奇跡に対する気持ちは微塵も変わっていないのだが。

自分としてはキリスト教の言葉を使うより、
仏教の言葉のほうが長年馴染んでいるし、どこか感性的にピタッと来る。

それなので、仏教的に表現すれば、ご縁があって今日生かされているし、
ご縁がなくなれば自然と死ぬのだろうという気持ち。

すべていろいろな因果応報やご縁が網目状に絡み合っていて、
そこで生きる縁があれば生きている(生かされている)、
縁が解ければ消滅するという、この世の中の実相感だ。

で、今生きているのだから生きられる方向にいろいろなものが作用している。
それに乗っかって生きているんだということ、それに有難しという実感だ。

このような仏教的な考え方(詳しく言えば大乗仏教的な観方)では、
自我という存在は本来無いとする。自我も生まれてから、
周囲から拾い集めてきた破片を身にまとい、凝り固まってしまった余計な存在と見る。

なぜなら詳しく検証していくと、自我には本来的なものは無く、すべて借り物。
にもかかわらず、だた自分は自分だと頑張っているような存在だからだ。
ある意味で自分を守るために造った鎧のようなもの。

自我は自分の力で生きていると考えがちだが、これも妄想に近い。
心臓ひとつ、毛ひとつも意のままにならない。
感情だってなぜそう感じるのかは説明できない。

こうして自分で意のままになるものがほとんど無いという事実に突き当たる。
自我だけが、意地張って自分だ自分だといっているだけなんじゃないだろうか。

で、最初に戻ると、豊かに生きるとはこの縁をいただいて生きている、
自分を支えているもろもろの縁を、感性豊かに感じ取って行きたいということだ。
それを深化させていきたい。

(2014-01-01 SNS日記より)

罪深き自分たち [身辺雑記]

今日で、お店の営業は終了。
お店のゴミなどを片付けてちょっと汗をかいた。
あとはスキー三昧、読書三昧になるだろうと思う。

ゴミ掃除をしながら、いつも感じる感覚を思い出し、
罪深き人類ということばが頭の中をめぐった。
ゴミの山をみると、いつも罪悪感を覚えるのだ。

こんなゴミをたくさん出して、お前はどれだけのことを
したのだ?森林の資源であった紙類をたくさん無駄にし、
食品やお菓子のプラスチック袋の膨大なゴミをだして、
こんなことを続けて、これからやっていけるつもりなのか?

燃えるゴミといって、燃やしてしまえる扱いやすいゴミ
ということになっているが、何のことはない、
木を燃やして灰にしているだけのこと。木は戻らないのだ。

燃えない廃プラゴミも、言うまでもないがもともと生き物や森林などの
有機体が地殻の中で醸成されてできた油なのだ。
一週間もすればゴミ袋いっぱいになってしまう、
包装材のプラスチックゴミ類の多さ!

素朴な感覚から罪深さを覚えるのだが、こんなことを続けていたら
いずれ貴重な地球資源はなくなる。分かっているのに
消耗と廃棄活動を止めない人類に、
そんな権利を与えているのは誰なんだろう?という思いだ。

しょせん人類はそんな程度の生き物なのかな、と諦めの気持ちにもなる。
30年位前にローマクラブの警鐘の本『成長の限界』というものが出た。
基本的にこれまでの継続で人口爆発を許容するならば、
人類に未来はないという本だった。

科学技術の思想も利用され、人類は自分の都合のよう方向にしかものごとを考えない。
技術開発が進むことで、人類の消費する量を上回る形で、
生産がカバーするという楽観論がある。
しかし、やれシェールガスだ何だといっても、ほんとうのところは綱渡りだったろう。
これとて、過去蓄積エネルギーの消耗型という形で、
しょせん根本解決ではない。ちょっと生き延びたかなというところか・・・

もっと何百年単位の技術開発をスタートさせて、
太陽から直接エネルギーを吸い取り利用するようなすごいことを
やるべきなのではないか、と妄想する。
巨大な発電惑星を建築して、地球の伴星にして、
いつでもエネルギーを地球に送電するような、
かなりばかげたプロジェクトだ。原子力発電惑星だっていいと思う。

限られた食料しかない穴倉に住んでいるのに、
そんな現実を見ないようにして、科学技術で明るい未来みたいなことを言われると、
とても違和感があるのだ。

やっぱり人類は地球規模の高度な知性というか、
己の真の姿を見据え高い精神性を備えるように進化することは無理なのかな、
国同士の争いをしているなかでみな滅びてしまうのかな、
そして映画にあったように別のちっちゃな生物が知性を発揮して
地球の主になるのかなと、ちょっと絶望感を味わう。

(2013-12-28 SNS日記より)

Merry Christmas! [キリスト教]

I wish you a Merry Christmas!
というのが正式な言い方らしい。
お気に入りさんにいわれて、
そうだクリスマスなんだと気づく。

父母が亡くなってもうすぐ1年になろうとしている。
趣味人倶楽部に入ったのは、その直後。
なので、このサイト歴も、もうすぐ1年だ。

1ヵ月半ほど体調を崩して、
このごろやっと元に戻りつつある。
どうも小児喘息になったみたい。
お店を開業してこの4年間、
一人でやっているので、休みづらいのだが、
はじめて体調を理由に店を休んだ。

多くの日本人がクリスマスになると、
何かパーティーをして騒いだりお祝いをしたり、
落ち着かなくなるというのは不思議な光景。
べつに信者でなければほんらい関係がないが、
日本人の感覚になじんできたのだろう。

自分はクリスチャンではないが、
たぶん聖書はかなり読んでいる方だろうと思う。
気になってしかたないイエスの言葉の、
その意味をめぐって反芻していたりする。

山上の説教に、こころの貧しきものは幸いである、
という言葉がある。
ある聖書に、自分の貧しさを知る人は幸いであると
翻訳されていた(フランシスコ会聖書研究所訳注)。
こちらのほうがすっとわかる。

と、夜が更けてきた。
メリー・クリスマス・・・

(2013-12-25 SNS日記より)

還元主義の方法論 [科学・技術]

なじみの少ない言葉だが、還元主義とは、複雑な系に対して、まず全体を構成する構成要素に分離して、それぞれの構成要素を検討対象とする方法論だ。一段階の分解では足りないことが多いので、つぎつぎと要素に分解する。

科学研究や技術分析において大きな威力を発揮してきており、研究者や技術者は、ほとんど無意識にこの方法論をとっていると思う。困難さは分解し、そして単純化する、などのセオリーがよく言われる。

この考え方の根底にあるのは、全体を構成する要素をすべて重ねていくと、全体が再構成されるだろうという前提だ。したがってこのような前提に当てはまらない複雑な系や、分解すること自体が困難な系に対しては、適用することができない。

適用困難な系としては、たとえば意識、魂(認めるとすれば)、生命などがあると考えている。この辺については議論もあるところだろう。しかし、とりあえず自分自身はそのように見ている。

いちばん自分が関心があるのは、生命というもの、そして人工知能という存在だ。生命は何億年と引き継がれてきた現実の存在であり、人工知能はやがてやってくるだろうと想定されている存在である。

生命体の活動や機能には、語りつくせないほどの膨大な謎が含まれていて、それぞれの機能は有機的に複雑に結びついていて、近々に、それぞれ単独に分解できるようには思えない。生命の解明の日は、はるか、はるか遠い日のことだろうと気が遠くなるような思いがする。

具体的な例をあげようと思う。
たとえば血糖値は、非常に狭い範囲に制御されていて、少なすぎれば種々のホルモンが分泌されて上昇させようとするし、高くなりすぎるとインシュリンが分泌されて下げようとする。血糖値を下げる反応とあげる反応がともに同時に働き続けて、その平衡点が一定値に保たれている。

糖分を含む食べ物を摂取すれば、血液中の血糖値は上昇するが、いっぽうで、各部位でそれをエネルギー源として細胞に受け渡すため、糖分は減少する。

血中濃度を一定値に制御するためには、血糖値を検出しているセンサーにあたる部分がなければ制御できないが、どうも脳がそれをおこなっているということだ。脳がおこなうと書いたけれど、どのような仕組みでどのような制御系で脳が血糖値をコントロールしようとしているのかはよくわからない。

人間が扱っている化学反応は、もっとシンプルなもので原材料や、原油みたいなものを一定温度に加熱して、そこで優先的に起きる主反応を利用するものが多い。紛れのない単純なものをつなげているのだ。何が起きているのかわからないという得体の知れない反応は危険で利用できない。
せいぜい微生物の発酵反応を利用してしょうゆや味噌を作っていることぐらいだろうか・・・

生命体が体内で利用している反応は、体温程度の常温(化学常識からすればきわめて低温)で効率的に反応を起こす。高温に加熱しなくて済むように酵素を自ら作って、反応の障害となるバリアをすりぬける機構を利用している。

植物の葉が当たり前のようにおこなっている光合成ひとつとってみても、その反応は非常に複雑な反応の連鎖になっている。縮めて書いてしまえば単純。
12H2O+6CO2→C6H12O6+6O2+6H2O
しかし実際には、カルビンサイクルという多数の化学反応が連鎖的にしかも環状に起きて糖を合成している。

いまだ人間は、人工的な光合成反応を作ることが出来ない。せいぜい植物体の体を借りてきて利用して、食糧の生産しているのが現実なのだ。

とり止めなく書いてしまったけれど、植物ひとつとってみても、その中でおこなわれていることがらはとても複雑で、人間の手に負えないほどの精緻さを持っている。まして動物や人体が生きていくために体内で(無自覚に)利用している反応といったら、何百になるのだろうか。何千だろうか。

そして、最後に思うのはいつもこのことだ。
還元主義で何百の反応が特定し解析できたとして、それらを統合して、もとの生命体が構成できるだろうか、生命体の機能を再現できるだろうか、生命を作るなどということが可能だろうか。その複雑さをひとつひとつ積み重ねれば、全体という存在が、ひょいと出現するものだろうか。

人工知能についても同じである。複雑で膨大な数のプログラムコードを、連動させた瞬間に意識は誕生するものだろうか。自ら意思を持ち考え出す機械が出現するだろうか。

(2013-12-24 SNS日記より)

生命と死 [いのち]

このごろずっと、心に反芻しているテーマがある。
くだらないといえば、くだらないのかもと思う。
でもなんだかこのテーマは避けて通れない。
これは生きているうちに決着しておかなければと思う。

なぜ生命は終わりをもつのか。
もっと端的に、なぜ生命は死ぬのだろうか。
そんなテーマだ。

これだけでは、あまりに漠然としていてわかりにくい。
もっと具体的な例をあげたい。
自分が高校生だったころ、家の前に迷い犬がやってきた。
立派なコリー犬だった。
当時は、横須賀に住んでいて、想像したのだが、
米兵の家庭が帰国するに際して捨てたのだろうと思う。
きちんと血統書がついていそうないい犬だった。

迷子犬として届け出て、
飼い主が出現するまで家で飼った。
そのうちに情が移ってしまい、
飼い主が現れないように願った。

めでたく我が家の犬になった。
それからは野原で飛び跳ねたりほんとうによく遊び、
家族同然になった。

ある年に、リリー(と命名した)が妊娠しているらしいという
ことがわかった。だが正常な妊娠ではなかったらしく。
腹部の別の場所に子供がいるとわかった。

やがてそれは命を奪うほどに、
リリーを苦しめることになるのだが、
それをどうしようもなく、ただ撫ぜてあげるくらいしかなかった。
いよいよ限界の時が来て、5分くらいおきに、
苦悶の声を上げるようになった。
でもどうしようもなかった。

最期は、寝かしつけていたタオルの上で、
そのままの姿勢で冷たくなった。

そのとき死というものが理解しにくいものだと
思ったのだ。
いまりリーは意識があって(もちろん生命が続いて)
苦悶している。それは苦痛があったり、
生命にとってそれこそ致命的な症状が進行しているのだが、
命はまだ確かにそこにある。

だが何のきっかけかわからないが、死が訪れる。
生命を維持するための機能が損なわれるということが、
確かにあるのだろうと思う。

しかし機能が損なわれてしまうからそれが、
生命が失われるということと同等なのだろうか?
機能が失われたことと、生命が終わるということは
かなり隔たりがあって、別物じゃないかという
感覚が生まれた。

生命を維持する機能を喪失したことが、死と同等ならば、
死とは、まるで機械で作り上げたロボットが動かなくなるのと同じだ。
科学技術が進めば機能を停止せずに済む世の中が来るのかもしれない。

しかしながらこの経験により、
もっと根源的なもの、命というものを生命は
抱いているという感覚がのこった。
それを宗教家ならば天に召されると表現する。
つまり「命」がどこかへ行ってしまうと表現する、
つまり命は、機能停止した体に居ないだけで、
命そのものは失われない。

生命の神秘はまだまだわからないことだらけだ。
先ほどまで苦しんでいたリリーが、ふっと楽になった瞬間、
そこにどんなドラマがおきたのだろう?

そんなことをよく考えるようになった。
そして思いを一遍の詩を書いた。
いずれ活字になるだろう。

(2013-12-19 SNS日記より)

地球は青かった [宇宙]

ガガーリンが宇宙旅行をして、人類で初めて地球を外部から眺めたときの
感嘆の言葉として伝わっています。
しかし正確には、もっと詩的で美しい言葉で語ったようです。
この言葉は、自分の中ではいちばん好きな言葉のひとつです。
いつ読んでも感銘を受けます。

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地球は優しく光る淡い水色だった。
地平線の様子は、独特なものでとても美しい。
明るく光る地球の表面から、暗黒の空への境目は比べようもないほど美しい。
暗黒の空間には星のまたたきが見える。この境目は、とても薄いもので、
地球の球体を囲む膜の帯のようだった。地球の色は、優しく光る淡い水色で、
暗黒空間へとつづく境目は、とてもなめらかな曲線で美しい。
言葉では伝えにくい。
地球の影からでたとき、地平線はまた違ったようにみえた。
地平線には、明るくオレンジ色にひかる帯があり、
その色は、再び、淡い水色に、そして濃厚な黒色に変わった。

ロシア語の原文からの翻訳。出展は下記。
http://sasakima.iza.ne.jp/blog/entry/151395
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私のプロフィール欄に、成層圏に行きたいと書かせていただいてますが、
まさしくその光景を自分の目で見つめてみたいと思うからです。

日ごろ、空が青くてきれいだとか、今日は曇っているとか挨拶代わりに
そんなことを口にします。でもほんとうの地球の姿は、
地上から眺めた大気圏の動きだけではありません。

宇宙空間にぽかっと水色の球体が浮かび、その成層圏の外側には、
真っ黒の宇宙の姿が広がっています。
青い地球の上では水蒸気が渦を巻いて太陽の光を反射しています。

大気圏と宇宙の境界からの眺めはとても神秘に満ちていると感じます。
外側には宇宙の世界、地球を見るとそこには雲や大陸や海などが輝いています。
また境界すれすれの領域には、ボウッとかすんだ大気層を地球がまとっているわけです。

まさにここは宇宙との接点で、長年人類はそれを見たことがなかったのですね。

宇宙飛行士の多くが、宇宙からの帰還後に宗教に帰依したり
神を信仰するようになったという話があります。
それは不思議でもなんでもないと感じます。

なかなか、いい画像集がないのですけれど、
「宇宙から見た地球」(河出書房新社刊)という
写真集はお気に入りです。
この本の表紙にはこの境界領域の美しい写真が飾られています。

(2013-12-16 SNS日記より)

奇跡的なこととは [宗教]

生物学の本を紐解き、生命の発生の章を
ぱらぱらと眺めると、たいていは失望する。
ほんとうに知りたい事柄が、書いていない。
いや、わからないと書かれていることもある。

太古の海で、最初の藻のような生命体が発生したと
いうことなのだが、勝手に偶然に生命体が
出来るものなのかというのが、長年の疑問だ。

最初に生命体に近いものとしてRNAが出来たという
説があって、このRNAは選択的にたんぱく質を合成するのに
必要なアミノ酸を、つなぎ合わせていったという話だ。

ではそのRNAはどうやって出来たのかになると
その辺はよくわからないということになっている。
生命発生のいちばん疑問に感じる部分の
説明ではなく、そこからやや後のステップの話だ。

RNAはそのような生命の基礎を作る機能を持って、
ポコッと生まれたのかというと、どうもよくわからない。
物質世界から、生命世界へと踏み出すその瞬間に
何が起きたのか?

生命体は、自分自身の形態や機能を維持するために、
環境から必要なものを吸収、または奪ってきて生きている。
つまり生命の秩序を維持するために、必要なものを
取り込みながら、また不要物を捨てながら生きている。

ところが死を迎えると、この維持機能が失われて、
あとはエントロピー増大の法則にしたがって、
分解、腐敗、風化をしていく。まあバラバラに要素に
なって形態と機能を維持していた何物かが消えてしまう。

重要なのは、この何物かが入ったり、消えたりすることなのだが、
これが実はいちばん分からないところなのだ。
これはいったい何なのだろう?
命といってしまえばそれまでなのだが・・・
それはなぜ生まれたのか、そして進化し続けてきたのか、
まったく分からない。

もののたとえで言えば、こんな感じだ。
ここに時計の部品がごちゃごちゃと箱に入っていて、
たとえば、ぜんまいや歯車、小さなねじや蓋などの小さなパーツがいっぱいだ。
この箱を、なんとなくゆさゆさと揺すったり、叩いたり、熱を加えてみたり、
蒸気を当てたりして、何億年もそんなことをやっていると、
あるとき箱の中に針が動いている時計ができているということだ。

偶然に生命体は生まれたのでは?と言う人は、
この箱の中に時計がある日出現するだろう、
といっているのと似ている。
バラバラのものから秩序を持った有機的に結合したものが、ある日出現する!

突然、飛躍してしまうのだが、ボクたちの生命やまわりの動物たち、
植物が、一所懸命命を維持しようと頑張っている姿は、
とても不思議で奇跡的な話なのだと結論付けられる。

中で何が作用しているのかも分からないけれども、
今日も目が覚めて(寝床で死んでいなくて)、腹が減り(生き続けたい)、で、
すこし勉強などしてこの世の不思議を見つめたい(向上したい)と思っている。

奇跡はいたるところで、一瞬一瞬起きていて、それを自覚できていないだけで、
生きているとは、勝手にすごいことをやってのけているのではないかなという感覚がある。

たぶん死の病を宣告されて絶望し、それがのちに誤診だったと告げられたときの、
ああ生きることができて良かった!という安堵の気持ちこそ、
忘れてはいけない感謝の感情ではないかと思う。

で、ここからさらに飛躍するのだけれど、イエスや弟子たちが起こした奇跡の数々は、
ほんの一部で全体からすればたいしたことはなく、
ちょっといじって操作しただけのような感覚を持つ。
ほんとうは、この世の中や地球や宇宙のありようが奇跡の集大成なのだと思う。
これはヘンかな?

(2013-12-14 SNS日記より)

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