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マタイ受難曲から [音楽]

バッハのマタイ受難曲は、大曲ではあるけれど、
マタイ福音書に沿って、イエスが受難するまでの
ストーリを聖句や賛美歌、自由詩などで構成する。

自分が日々繰り返し聴くのは、たった一曲なので、
バッハに対して失礼かもしれないなと思う。
しかしその理由もそれなりにある。

それは「ペテロの否認」のあとに歌われる第39番の
アルトのアリア。バイオリン曲として独立して演奏される
こともある切ない旋律である。

ある人はマタイ受難曲の中の最高峰、いやアリアの中の
頂点に位置するとまで言う。自分もほぼ賛同したい気分。
大げさに言えば、人類史上最大の嘆きと後悔の歌と
言っていいのだろうと思う。

なぜなら、いちばん弟子と自認していたペテロが、
イエスが逮捕される晩に、意に反して(?)、
3度の裏切りの言葉を発してしまったからだ。

イエスの逮捕劇が進行する庭で、遠巻きに見ていた
ペテロに対して、ある女中が、お前もあのガラリア人
イエスと一緒にいたはずだと指摘する。
ペテロは、あなたが何を言っているのか分からないと
否定して、出て行こうとする。

と別の女中が、やはり言う、この人はイエスと一緒だった。
するとペテロは、そんな人は知らないと否定する。

そのうち周りの人々が集まって、
あなたは確かに彼らの仲間だ、言葉づかいでわかる。
対して、ペテロは3度否認する、
その人のことは何も知らないと。

人間の関係のなかでいちばん辛らつなのは、
知っている人に対し、知らない、自分は無関係だ
と言ってしまうことだろう。
命にかけてイエスについて行きますと、
先刻誓ったばかりのペテロだった。

3度目の否認のあとに、イエスの予言どおり、鶏が鳴く。
ペテロはそれを思い出し、外に出て激しく泣いた、
と福音書は記述する。言葉は短いが、
いい年したオヤジのペテロが外で激しく泣いたということだ。

39番のアリアは、この後悔と神への憐憫を請う曲である。
バッハが作った歌詞はやはり短い。
しかしこれ以外にないのだろう。

「哀れんでください 私の神よ!
私の涙ゆえに!
私をご覧ください
心も目もあなたの前で
激しく泣いています」

Youtubeで検索すると、たくさんの歌い手が
アリアを歌う動画が出る。
お気に入りの歌を数曲、iPhoneにダウンロードして
次々と聴く。繰り返し。
ドイツ語はよく分からないが、
歌詞はMein Gottだけ聞える。
やはりバッハに失礼な視聴者だ。

対訳を参照すると、憐れみたまえ(Erbarme dich)
のフレーズが繰り返し、繰り返し、
曲中にいくども現れる。

(2015-08-21 SNS日記より)

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幽霊尾の正体見たり・・・ [思想]

ことわざに、『幽霊の正体見たり枯れ尾花』というものがある。
幽霊が出た、あ怖い!と思ったけれど、
よく見れば枯れススキが揺れていただけ、
というような意味だ。
このことわざは、意味深く味わいがある。

怖いと思った瞬間は、幽霊はそこに居るのだ。
しかし目覚めてみると、ススキが揺れている影だった。
錯覚といってしまえばそれだけのことだけれど、
錯覚に陥っている間は、まさにそれは真実なのである。
覚めなければ、ずっと錯覚のまま、幽霊は居続ける。

だから錯覚の中に居る人と、錯覚から目覚めた人とは
話がかみ合わない。

こんな思考の構造を考える。
知覚があるとき、その対象物がたしかに向こうに実在すると信じる。
幽霊のようなものを見れば、幽霊は居ると信じて逃げる。
刺激が、実在を想像させるということなのだが、
刺激を起こす何ものかはあるのだが、
その大元の実在があるのかどうなのかはにわかに断定できない。

つまり
知覚(幽霊を見た)→知覚の原因(実はススキがゆれる?)→実在(幽霊が居る)
という流れがあるのだが、たいていは中間が抜けて、
知覚(幽霊を見た)→実在(幽霊が居る)
となってしまう。
この後者の考え方は、『素朴実在論』である。

色の話でたとえるとこんな感じである。
青色と黄色を混ぜると、緑色になる。
青色に見える顔料と、黄色に見える顔料を
ただ並べて一緒に目に入るようにすると、
緑色に見えてしまう。

目の刺激(緑色に見える)→青色の刺激と黄色の刺激(波長)
            →青色顔料と黄色顔料

実在と刺激とが一致せず、緑色の顔料という実在は無いが、
緑色に見えるということだ。

幽霊を見たときに、実在として幽霊が居るのかどうかは
にわかに断定できない、はてな?ということになる。
事実、これほど幽霊画像や動画が発表されていながら、
その実在性を検証し、たしかに物理法則を越えた
不思議な実在があるという結論を、寡聞にして聞いたことが無い。
刺激のレベルの話ではなくて、その刺激を起こしているものが、
これまで知られた実在ではなくて、超常的な実在によるもの、
信じがたいものによっていたという検証だ。

何遍やっても物理法則に従わない、不思議な現象・・・
ものが浮くとか、勝手に動くとか、
何も無いところからものが現れたり消えたりする。
明らかに生きていない人間が活動している。
壁をすり抜ける。
空中から音声が聞こえる。

もしあったら教えていただきたいな。
それはワクワクする体験である。
物理学の発展に寄与する大発見かもしれない。

注1)ただし極微の世界の量子論の世界では、
   非日常的な不思議な現象や、壁のすり抜けは日常茶飯事です。
注2)カントの純粋理性批判では、物自体を認識することはできず、
   人間の認識形式の中にはまったものだけを受け取るのだ、
   と主張しています。
   また唯識思想は、こころは外の世界に出たことが無いという
   論を展開します。この辺の話は、また。

(2015-08-16 SNS日記より)

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心霊現象だいすき [日常]

なにを隠そう、じつは心霊現象やUFOなどは大好きなクチだ。
夏になるとTV番組の特集が組まれ、まちがいなく観ている。
家族もすでに諦めていて、チャンネル権を渡してくれる。

自分が心霊現象に興味を持つのは、じつは技術者の魂というか
科学的な関心から出てきていることを自覚している。

そんな不思議な怪現象がもしこの世にあったら、
物理学の根底が崩れるだろうなとか、
新しい世界や次元の発見かもしれないという「期待感」、「わくわく感」は
捨てがたく、想像するだけでたまらない気分になる。
そういう意味では、心霊現象を信奉しているというよりも、
そんな現象を見せてほしい、現れてほしいという、
心霊現象待望論に近い。

ところがせっかく意気込んで番組を見るものの、
最後まで見ることはめったに無く、
やおらTVチャンネル権を放棄し、自室に戻ってしまう。
嘘さ加減にあきれるやら、矛盾していたり、バカバカしくなって
時間がもったいないな、と我に返るのだ。

たとえばこのごろ流行している心霊現象は、
動画撮影していた家族などのアングルの片隅に、
一瞬、恐ろしげな顔が映り込むというもの。
今季よくみるのは、顔が半焦げになったような、
あるいはゾンビみたいな黒い肌の女性の顔。
目はたいていパッチリと見開いている。
暗闇の中から、こんな顔が瞬間現れたらホントびっくりする。
でも、今季の流行らしくこの手の顔が多いのに気がついた。
不思議なことに、心霊現象にも流行があるようなのだ。

先日、TV番組『マツコの知らない世界』で、UFOビジネスの紹介をしていた。
明らかに人間が作った映像なのに、それがビジネスになるというお話だ。

車を運転していたら、目の前をUFOらしきものが前方から
接近し、やがて車の後ろに去っていく。
紹介されたこの映像は、じつに「美しく」、「すばらしいもの」だった。
で、ほぉと思ったのは、この動画とは別に、
このニセ動画をいかにして製作したかというネタばらし動画も発表されている
ということだ。じつは自動車を含めて、CGで製作していたのだ。
UFOの詳細が写りこんでいて、ワクワク感があったが、描きすぎという感も
しないではなかった。
UFOビジネスとは、この2つの動画をセットを売るのである。
いろいろな国で放映されるTV特集番組で使うということで、
ひっぱりダコになるということなのだ。

ニセを楽しむ・・・
どれだけ本物に近いか、そのフェイクぶりを楽しむ・・・
というちょっと高度な文化になりつつある。
成熟文化というべきか。

動画編集や画像の編集の技術やテクニックを知っている人ならば、
いかに「いい」ウソ画像を作るかという課題に対して、
腕がなるという気分を理解することができるだろう。

過去、有名となったニセ画像のいくつかがある。
・ミステリーサークル:
 夜間に棒状のムギを引き倒す道具を使ってぐるりと回る。
 いかにきれいな円形のパターンを作るかの技のみせどころ。
・ネッシー:
 ひとかかえほどのちいさな首だけのネッシーを模型船につけて離れて撮影。
 画像をトリミングしてそれらしく見せている。
 ちなみに前から、波の大きさとネッシーの大きさが不釣合いだなと
 感じていた。
・妖精写真:
 紙に描いた妖精の人形を撮影。みょうに妖精がくっきりと写っていた。
・ロズウェル事件で捉えられた宇宙人:
 フィギュアースケート選手の演技フィナーレ写真を縮小し、
 人と一緒に撮ったと暴露。
・河童など、妖怪のミイラ
 聞くところによると、魚や小動物を解体して、不思議生物の
 ミイラを作る技術と技術者がいるらしい・・・

ちなみに天国とか地獄があるのかないのか、
臨死体験で出現した世界はほんとうにあるのか、
など興味深い話題がたくさんあるけれど、
長くなるので、また。

はやくワクワクさせるような新現象は出てこないものかな・・・

(2015-08-13 SNS日記より)

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二人のバーベキュー [いのち]

猛暑続きの毎日。
夕刻に、家内と二人で庭に出てバーベキューをした。

庭木の折れた細枝を使って火起こしをして、炭火を作る。
焼き鳥、ウィンナ、庭で採れたかぼちゃ、ピーマンなどを
焼く。今日は、自分がトンクで焼く係りをする。
続いて、魚のひらき、牛肉などを網に載せる。

家内とたわいの無い会話をしながら、
頭の中ではいろいろな思いや疑念などが渦を巻く。

こうして自然のものや生き物であったものが
人間が口にしておいしいと感じるのは何故か。
TV番組で生産者のところへレポーターが行き、
新鮮野菜を丸かじりすると、とても甘いなどという。

人間が口にするものは、鉱物をのぞいて
基本的に生き物しかない。
また、イキがいいほどうまいのだ。

豚や牛などの動物の肉、そして米や野菜など、
植物の茎、葉、そして実だ。
人間は、生き物がおいしいと感じる感覚が備わっている。
それはなぜなのだろう・・・

昔聞いた話では、人間にとっていちばんおいしく感じるのは、
自分自身にちかい動物であると。

じつは、この世の作りからいって、このことは自然である。
人間の口にするものは生き物しかない。
生き物を食べることによって、人間は自分の身体を
維持する。他の生き物の形成した栄養素を
摂取することで自己の身体を維持しているのだから。

もし、それらの生き物の味が苦痛であったなら、
人間は食欲を失い、生きる動力を失う。
美味しくなければならないのだ。

生き物の世界は不思議に満ちている。
食物連鎖の頂点に人間は立っているが、
それぞれの動植物は、それより弱いものを
捕食したり滅ぼすことで生きている。
大きな魚は小さな魚を丸呑みし、
小さい魚は小さな海老などを食べる。
海老はプランクトンやコケなどを食べる。

いのちを与えられながら、そのいのちを
奪い合うこともやっている。
頂点に立つ人間も死ぬときは焼かれて
二酸化炭素と水とわずかな骨に分解する。

二酸化炭素は木々に吸収されて、木の一部になったり
酸素を作る材料となる。水は空の上って雲を作るだろう。
骨は根に吸われて植物の骨格に変化することだろう。

こうしていのちの連鎖と物質の連鎖を
巧妙に続けながら、この世界がまわっている。
その一部の部分に自分の命がかかわり、
体が組み込まれている。

あ、牛肉が炭になってしまった・・・

(2015-08-04 SNS日記より)

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ちょっと詩的にいうならば・・・ [禅]

「もしあなたが詩人であるならば、この一枚の紙の中に
雲が浮かんでいることを、はっきりと見るでしょう。
雲なしには、水がありません。水なしには樹は育ちません。
そして樹なしには紙ができません。
ですからこの紙の中に雲があります。
紙と雲は、きわめて近いものです。
・・・この小さな一枚の紙の存在が宇宙全体を表しています。」
   ティク・ナット・ハン『仏の教え・ビーイング・ピース』より

ティク・ナット・ハン氏は、ベトナム出身の禅僧で詩人、平和活動家です。
ダライラマ氏と並んで、現代の代表的仏教者といわれています。

この言葉の意味は、仏陀の悟られた縁起の法を表現したもので、
存在は孤立無縁ではありえない、
依存しながら存在が変転しているさまを、詩的に述べたもの
と受け取っています。

ボクたちは、孤立することができないし、孤独になりえません。
このことの意味を深く了解すると、世界の見え方が、
ガラリと変化してしまいます。

たとえば空気を吸ってボクたちは生命を維持しています。
ほんの10分ほど、周りの空気が遮断されたら、
みな死に絶えてしまいます。間違いなく・・・
(この話をするとき、いつも思い出すのは、
『トータル・リコール』という映画。
主役のシュワルツェネッガーが、火星の大気中に放り出されて、
顔を真っ赤にしながら窒息しかかって足掻くシーン。
ま、関係ない話ですが)

この空気は、あって当たり前のもの、ロハ、つまりだれも対価を
払っていません。
古代の地球の大気は水素とヘリウムが主な成分だった時代があり、
やがて二酸化炭素に変わったようです。
酸素は光合成を行う植物の出現により、生み出されたものです。

ついでに言えば、ボクたちの血液中のホモグロビンの中核の鉄原子。
これは太陽系で生まれたものではなく、遠いところの超新星の爆発で
飛び散ったものを材料にしていると分かっています。
太陽は、単に水素を核融合してヘリウムにして燃えているわけで、
それより重い元素を作る能力がありません。
宇宙空間に漂っていた星の残骸の重い元素を、
太陽の引力が引き止め、掻き集めて惑星にしたといわれてます。

したがって間違いなく宇宙の子なのですが、
そんなことは普段まったく考えません。
空気があるのは当たり前、それが吸えるのは
トーゼンでしょ。そんな感覚で生きています。
自分の都合で生きているだけという状態です。

しかし科学的に分かっていることを並べていくと、
人間の生命は、周りのもろもろのものや事柄を、
わがものとして取り込み吸収して生きている姿になっていきます。
それを仏教者は、宗教的な直覚から核心を理解しているわけです。

ボクたちは周りのものを取り込みながら生きていると書きましたが、
ほんとうの姿はもっと違うものかもしれないと思います。
周りのものが(何かに)集合させられて、
今ボクたちの形となって生きている・・・、
生きている主体はよく分からないのだが、
それをとりあえず自分としてしちゃえ・・・
自分とみなしておこう・・・

これってへんかもしれませんが、この辺がより真実に近い、
ほんとうの姿かもしれないなぁ・・・と想像することがあります。

以前の日記に記したことですが、アメリカで禅の普及に努めた
禅僧の鈴木俊隆氏の言葉が思い浮かびます。

「君たちが1枚の落ち葉を見たら、ああ、秋が来た!というだろう。
1枚の葉はただの1枚の葉ではない。それは全体の秋を意味する。」

http://smcb.jp/_ps01?post_id=6249160&oid=515060

(2015-07-02 SNS日記より)

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ふかく了解した人は [浄土真宗]

妙好人とは、浄土真宗の信仰をふかく会得した、在家の方である。
先日、三河のおそのさんという妙好人の言動を知る機会があり、
そのこころに感銘を受けた。

おそのさんは、農家の出身で、鈴木玄通という藩主お抱えの医師の家に
女中奉公をしていた。玄通の奥方が亡くなり、このおそのさんが、
後添えとしてもらわれた。
百姓の娘が藩医の奥様として格式の高い家に入ったので、
ずいぶんと見下げられ苦労したとのことだ。

しかし頭のよい女性だったのだろう、読み書き算盤、
医者の嫁としての教養を身につけてしまった。
鈴木家は竜泉寺という浄土真宗の檀家でもあったので、
しだいに信仰の道にも深く通じるようになったようである。

深い信仰を持つ人として、その名はしだいに広まり、
遠地のお同行さんが、おそのさんに教えを請うほどになった。

伊勢から訪ねてきたお同行が訊いた。
自分は長いこと聴聞してきたが、どうしても信仰が得られず、
疑いが消えず心も晴れない。
どうしたらいいか、との相談。
するとニコニコしながら、おそのさんはその秘密、
ほんとうに知りたいかと聞く。

秘密があるならぜひ聞いてみたいというと、
わかった、これから言う言葉を2、3年言い詰めに言うとよい。
信心が得られると答えた。
そして、「お差し支えなし、ご注文なし」と言う言葉を与えた。
その女性は、「お差し支えなし、ご注文なし、お差し支えなし、
ご注文なし」と称えながら帰っていった。

その3、4日後、その女性がふたたび、おそのさんを訪ねてきた。
「おっしゃったとおり、あれから毎日、お差し支えなし、ご注文なし、
と称えてきたが、自分のこころはいっこうに変化がない。
どうしたらいいのでしょうか」

「お差し支えなし、ご注文なし。」
と、おそのさんは、答えた。

お同行の女性は、
「いえ、それはよくわかるのですが、
そう言っても聞いても、わたしの心はちっとも変わりません。
これをどうしたらいいのでしょうか。」

おそのさんは、厳しくこう言った。
「お差し支えなし!ご注文なし!」

その女性は、はじめてほんとうの意味を悟ったのだろう、
こう気がついたそうだ。
「あっ、仏さまがそうおっしゃっているのですね。
いままで私の心を眺めて、こいつが聞いてくれない、
わかってくれないと、自分の心ばかり眺めて、
直そう、直そうと考えておりましたが、
自分で心得違いを治せるような者じゃあございませんでしたなあ。
ありがとうございます。」
と得心がいったという。

反省とか修行とか、自分でしっかりとしなければならないと
真面目に考える人ほど、自分が自分がとコントロールタワーで
あり続けようとする。
しかし、このコントロールタワーが、
悩みや苦労のみなもととなっていることもある。
それが信仰を妨げていることもある。
そのポイントを、おそのさんは短い言葉で突いたのだ。
そのままで、「お差し支えなし、ご注文なし」と。

        「妙好人に学ぶ」芦屋仏教会館編より

(2015-06-13 SNS日記より)

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アナタにとって美とは? [美術]

今回は、技法的なことがらをはなれて、
絵を描くさいの、根本的なところについて、記してみたいと思います。
これまでの経験を交えて・・・

自分は、小さい頃から絵の好きな子だったようです。
父母が亡くなってから、実家の整理をしたときに、
自分の子供時代に描いた絵などがたくさん出てきました。
どうも母が捨てずに保管してくれていたようで、
それらを見ることができました。

不思議な感覚でした。
描いた当時の感触がまだあるのです。
古いものでは、60年の歳月を経ていますが、
当時どんな思いで描いたかをおぼろげながら思い出すのです。

海の中を描いた絵では、魚の頭がこちらの正面を向いているけれど、
尻尾のほうは泳いでいるのでしならせていて、
横に見える尻尾を、苦労して描いたなという感覚です。
また海中の水を青色で塗っていますが、隙間ができないように
丹念に塗った自分の記憶があるのです。

絵というものは、たんに絵の具を使って描く行為ではなく、
なにか、こころの動きや感動を塗り込める行為なのだと
あらためて確認した瞬間です。



大学へ進学するときに、これからの自分の進路を
決めなければいけない場面がやってきます。
当然というか、絵の道を考えました。
しかし親の反対もあって、技術系の道に決めました。
絵の道なんか、食えるわけがないというのが
親の反対理由でした。

ほんとうにそちらへ進みたいのならば、
親の反対なんか突破し突き進むことも可能でした。
それをしなかった理由を、鮮明に覚えています。

自分の「美」がわからなかった。
ということに尽きます。

技法的なことや、絵の具の使い方は、
勉強すれば身につきます。
それらの絵の知識は、専門の学校に進めば
飛躍的に広がる機会が与えられるでしょう。

しかしです。
自分は何を描きたいの?
これがわからなくては、
絵を描いていくことはできません。
どんなに絵が上手くても、
テーマのない画家というものが考えられない、ということです。
行く先がないのにとにかく進めといわれているようなものです。

もちろん職業画家というものはあります。
クライアントの依頼の応じて絵を制作する道です。
これは完全に仕事として技能を売る道ですが、
しかし売る絵を描いているときも、
絵に愛情なくしては描けないのではないか
という感覚があります。

「芸術家」として自分のあり方を見たときに、
自分は何を表現したいのだ?
というところがグラグラしていては、
美大において、描きたいテーマを持った才能溢れる美学生に
伍していくことはとうてい無理だと思いました。

自分がほんとうに美しいと思うものは何だろうか?
描きたいものは何だろうか?
この疑問はずっと何十年も続きます。
不思議な縁で、仕事の都合で赴任した先の、
信州の緑の風景に触れたときに、この問いは一気に解決しました。
この輝く緑の風景を描きたいんだ、
という内面の動機がハッキリ見えたのです。



絵を描くということは、紙に向かってなんらかの図形を描く、
ということですが、こころの世界から見れば、
画家の信じる美を表現していることでもあります。
絵の裏側には、画家の感動があり美への思いがあります。

この感動がなく、美を失ったときに、
絵を描くことがマンネリに陥っていきます。
あるいは描いていてイヤになります。
苦痛にすらなります。

趣味で絵を描くなら、なおさら、この美は大切なことです。
海外ではプロの画家とアマチュア画家を区別する意識はあまりなく、
フルタイムペインター(しょっちゅう絵を描いている人)と、
パートタイムペインター(休日に絵を描く人)と分けているようです。
絵を描く時間の長短のちがいだけとみているようです。
したがって、趣味で描いているといえども、
専門の画家とはちがうアマチュアなのだとは考えません。
みな画家あつかいなんですね。

なので、この問いは、いつも重要です。
アナタにとって、美とはなんでしょうか。



添付の画像は、20年位前に描いたものです。
自分のテーマが決まり、本格的に取り組もうと思った頃のスケッチです。
奥多摩にある川合玉堂美術館の付近の渓流の景色です。
ペンに水彩で描いています。

500x500-49152okutama.jpg


(2015-05-27 SNS日記より)

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ルノアールの言葉に [美術]

詩誌でお世話になっている世話人のA氏から、手紙が届きました。
先に開催された詩誌の作品合評会の様子が、したためられていました。
埼玉県で開催されるため、自分は会合にはほとんど出席していません。

詩作品として『描く』というものを出しましたが、活字になった詩誌が届くなり、
パラと見たきり、閉じたままでした。
なんだか書くべきでないものを書いた気がして恥ずかしくて、
この作品のことは忘れようと思っていました。

しかしA氏の言葉によると、自分の思いとは裏腹に、
「試作品『描く』は、いいと思う、気に入ったという人がかなりいました。
ことに女性の方に気に入ったという方が多数ありました。」
とありました。つまり評判がよかったらしいこと、
女性会員の声が多かったいうことらしい。

このギャップには正直驚きました。

詩の内容のなんたるかを、言わなければいけませんね。
むかいあう女性の姿を描いている絵描きの心のうつろいを
詩にしました。
うつろいという言葉は主観的な言い方ですが、
もっと分かりやすく言えば、むかいあう女性の姿に
肉薄しすべてを掬い取ろうとする画家のこころを書いたということです。
そして内面を描写するということは、
いつも恥ずかしさと、とんでもないことをした感覚に
見舞われるものです。

A氏の言葉は続きます。
「描くという作品行為を通じて、作者○○さん(私)の恋愛の感情を
受け取るからなのでしょう。」
この言葉にも、ちょっと驚きを隠せませんでした。
恋愛の感情を書いたつもりはないのだが・・・

しかし、ふと自分が絵を描く際に念じていることを思い起こしました。
それは、ルノアールの言葉に集約されています。
自分の気持ちは、このルノアールの言葉に
言い尽くされているといってもいいものです。
その言葉は、次のようなものです。

 「絵というものはぼくにとって、愛すべきもの、
  愉しくて美しいものでなければならないんだよ。
  そう、美しいものだ!
  人生には厭なことが多すぎるんでね、
  これ以上厭なものなんかこしらえたくないんだよ。

        『ルノワールの生涯』より
        (アンリ・ペリュシュ 著/講談社)」

そう、対象を愛さなければいい絵は描けないものだ、
とつねづね信じているのです。
そもそも対象をつぶさに見つめることは、
脳が対象を愛していることなのだ、
という脳科学者の言葉もあります。

書いたつもりはなくても、詩の言葉に
対象への思いがにじんでいて、
読者に伝わったということなのかもしれない。
そもそもそれを書きたかったのではないのか、
といま自問しています。

(2015-05-05 SNS日記より)

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見えない人たちが見えるようになり (自分のためのメモ) [キリスト教]

聖書をめくっているうちに、こんな一節に触れた。

「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。
すなわち見えない人たちが見えるようになり、
見える人たちが見えないようになるためである。」
そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、
それを聞いてイエスに言った。
「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか。」
イエスは彼らに言われた、
「もしあなたがたが盲人であったなら、
罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが
『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」

           ヨハネの福音書 第9章39節より

この問答は、生まれつき目が見えなかった男の目に
イエスが泥を塗り、目を開ける奇跡を起こした後に、
人々との間で始まった議論である。

見えると言い張ることが罪であると断定していることから、
この見える見えないという目の病気のことを言っているのではなく、
むしろこころの目のことを暗示しているように聞える。

「もしあなたがたが盲人であったなら、
罪はなかったであろう。」
とは、どのような意味を示しているのだろう。

この問答のそもそも最初のきっかけになった出来事とは、
生まれつきの盲人が、イエスの一行と出会ったことから
始まっている。

弟子たちがイエスに問う。
「先生、この人が生まれつき盲人なのは、
誰が罪を犯したためですか。本人ですか、それとも
その両親ですか。」
イエスは答えられた。
「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が
犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に
現れるためである。・・・」

それまでは、目が見えない者は、
なんらかの罪の咎めのせいでそのような負を背負って、
生まれたのだと考えられていた。
人は、罪びととして扱われていた。

イエスは宣言する。
彼の罪のせいでもなく、また両親のせいでもない。
ただ神のみわざの現れである。

イエスが述べたのは、
そこには人間界で罪を犯したとか犯していないという
事情と関係がない。
不合理とも思えるかれの背負ったものは、
誰のせいでもなく、ただそうあるとしか
人間からは言えないものだ。

自分の出自に関すること、自分の身体的な条件、
あるいは自分の気性や、家柄などなど・・・
すべては人間界からの視点では理由付けはできない、
ということを宣言している。
ただ神のみわざが現れている。

それを人間の知恵をもって推し量り、
彼には罪があるからだとか、こんな行動をしたからだと、
知恵のあるものとして裁くこと、
これを厳しくイエスは戒めた。

神の目を持ったかのように振舞ってはならない。
あなた方は神ではない。
見えるということを主張するあなた方こそ、罪深いのだと。
これがこの一節で述べられている隠れたメッセージの
ように思える。

神の目をもったつもりの人間は、
じつは目が見えていないのであり、
自分は目が見えない低き者だとへりくだるものは、
ほんとうのことが見えているというメッセージが
伝わってくるようだ。

じつは福音書の文章から、いたるところでイエスは
同様の言葉を発している。
おのれを神としてはならない。
おのれを神として人を裁いてはならない、
という言葉が、聖書の中で響き渡っている
ように感じる。

(2015-04-29 SNS日記より)

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道という考え方 (自分のためのメモ) [上達・練習]

野球トレーナーの森本貴義さんの言葉には、ハッとさせられるものが多い。
『プロフェッショナルの習慣力』という著書に、
野球の世界には2通りの人がいるという話があった。
つまり「野球をやっている人」と、「野球道を歩んでいる人」の2通りだ。

「野球をやっている人」は、引退と同時に野球をやめてしまう。
こういう人は現役時代に、野球を極めようというのでなく、
仕事として生活の手段として野球に関わっていたのだろうという。

「野球道を歩んでいる人」は、野球の面白さや成功するロジックを突き詰め、
野球を理解することに喜びを感じる人だという。
そしてこの野球道として取り組んできた人は、現役引退後も、
草野球を楽しんだり、子供たちの指導をするなど、
人生の中に野球が存在し続けるという。

道として野球をとらえて取り組むとはどういうことなのか。
たとえば自分のプレーが満足のいくものでなかった場合、
野球をやっている人は、不運だったとか、相手が悪かったとか、
いろいろな理由をあげるのだろう。
やるべき仕事としてとらえるならば、
次はうまくやろうと反省する程度に留まるのではないか。

しかし野球道としてとらえる人は、現在の自分の技術や
心構えのどこに問題があって、何を修正すべきかという方向へ考えを進める。
そういう人には、それまでに積み上げてきた自分の技術体系がすでにあって、
それが現実にうまく機能していない事実に対して、
どこを修正すべきかというふうに考える。

拙いプレーに対して、外部要因を探したりするのではなくて、
あくまで自己の歩んできた道に直すべき点があるという考え方だ。
言い換えれば、比較するのは過去の自分である。
相手がどうとか、環境がちがっていたとかではない。
相手や環境の変化に対しては、自分はどう対処するのかという視点で考える。

イチローが打撃フォームを変えるようにコーチに指導されたとき、
それに耳を貸さずに自分の信じたフォームを追求したという話は有名だ。
道を究めようとする人は、ひとり孤高に道を歩んでいるかのように見えてしまう。

しかし、比較する対象は、過去の自分。
傍からみると孤独に見えるかもしれないが、
本人は、孤独を嘆く気分など微塵も無いだろう。
自分の信じる道をどうやって進んでいくか、
その一点に腐心している。
孤独を口にする人は、いつも人と比較して生きている。

(2015-04-22 SNS日記より)

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