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うつについての随想 (自分のためのメモ) [思想]

この趣味人倶楽部の日記においても、うつに悩む方々の
肉声を聞くことが多い。ある程度の年齢になっても、
時が解決するということなど起きなくて、症状が改善しないまま、
うつに悩み続けているのかもしれない。

かくいう自分の身内にも、うつ歴40年の妹がいる。
思い起こせば、母親も始終うつだ、うつだと悩んでいたような気がする。
うつが血縁に関係するとすれば、自分自身もうつ的気質は
じゅうぶんに持ち合わせていることになる。
たしかに、勤め人生活の中で、
お前はひょっとしてうつになっていないかと疑われたこともあった。

先日来、まったく日記を書く気持ちが起きなかったり、
何かを情報発信してみたい気持ちにならない、
人前に出たくない、話をしたくない・・・これってよくあることだけれど、
うつの初期症状なんじゃないかな。
ひどくなれば誰とも関わりたくなく、口を開きたくない、
この世から消えてしまいたいというような気分に、
定期的に襲われてきたと思う。

しかし、ただの一度も、自分がうつになってしまったと考えたことは無かったし、
うつでダウンした経験もない。
鬱々とした気分の状態を、
自分はどのようにかわして来たのだろうと疑問が湧く。

それは何だろう?
考えを巡らせると、自分でも意識していなかった自己防衛的な姿勢と考え方を
身につけていたからだという結論に至る。
それは上手い表現がないが、自己不信、自分を信じない回路の存在だ。
「自分の頭の考えていることはおかしい、
どうせまちがっている」と考える回路のことだ。

どんなに苦しい時間をすごしていようとも、
これは自分の頭が認識しているだけの世界で、
きっとどこか間違っている!と思う習慣である。

自分の考えは間違っていない、
なのに自分が苦しむというのは、
ほんとうにジレンマで解決の糸口がない。
どこまでも考え詰めるとうつになる。
そうか自分の頭がおかしいのだな、
と見るのである。

(2015-02-17 SNS日記より)

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表現の自由 [身辺雑記]

デンマークで連続乱射事件が起き、警察の応酬で男を射殺したと報じられた。
これはイスラム過激派のテロであるという推定がなされている。

ねらわれたのはある画家が参加している集会で、
画家はイスラム過激派から指名手配されている人物だったようである。
指名手配の人物とは、いずれも預言者ムハンマドを揶揄したり戯画化したり、
イスラム教を貶める表現をした指名手配者たちである。

危惧しているのはこれらの事件の本質として、
宗教戦争が始まっているのではないかということだ。
表現の自由の名のもとに、異教徒の聖者を
どんな風に表現しようと意に介さないという頑なさを感じてならない。

言うならば、一神教同士の相克、その争いの際限の無さを見る思いがする。
矛盾という言葉の語源を見るまでも無く、
どんなものでも突き通す矛と、どんなものでも食い止める盾が争ったら、
何がおきるのか。どちらも、どんな相手でも破れるという「絶対」を含む。
相反する絶対同士が闘う戦場からは本当の結論は出ない。

身の周辺では、西欧流の考え方(つまりはキリスト教圏の考え方)を
ベースにニュースが報じられ、意味づけされている。
だけれども、今、報じられているような観点からは、解決を見ることは無いだろう。
それは何百年という宗教戦争の歴史(十字軍の戦史)を見れば明らかだ。

表現の自由に関して、それを制約すべきだという根拠は、あまり明確ではない。
一神教の教義からは、それは出てくるはずの無いものだ。
われらの神こそ唯一絶対の神ならば、それ以外の異教徒の世界の事情に関しては
何を表現しようと構わないとなる。

しかし、そこにこそ問題の本質がある。
この世界には自分たちしかいないと考えるのか、
多様な世界が広がっていて、ちがう価値観をもつ、
ちがう人々が生きているのだと観るのか。

今回の事件などをみれば、後者のような姿が、この現実の真実の姿だ。
ならばこの際に問いたい。
なぜそのような世界を、神は作ったのだろうか。
その意味は何なのだろうか。

(2015-02-16 SNS日記より)

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努力する人生 (自分のためのメモ) [人生]

努力して目標を達成することが幸せになる道であると、
そんなシンプルな人生観を、疑うことなく信じていることが
あると思います。
そこから、努力することは尊いこと、努力すること自体に、
価値があると発展していきます。

ところで、おかしな考えに聞えるかもしれませんが、
目標を立ててそこへ至ることが幸福なのか、
疑問に感じます。

目標は自分の頭で考え出したり、周囲から与えられたりしますが、
その目標は幸福をもたらすと、誰が調べたのでしょうか。
なんとなく、目標とする人物が幸せそうに見えるから?
信頼する人が言ったから?

ボクの実感です。
そのように目標を立て、それに近づくよう努力した結果、
目標に近づいた自分がいるとします。
でも幸福が訪れるというよりは、別の目標を達成しなければならないとわかったり、
目標自体を立て直すことが必要になったりすることが多いのです。

会社を設立して事業家になりたい夢を抱いて、
それに向けて努力して、自分の会社が設立できたとします。
ところがそこでハッピーとはならなくて、
利益を出せる会社にしなければならないとか、
いまの2倍の規模を目指すとか、
ライバルに倒されないように強大な体質を築くとか、
目標はつぎつぎと生まれて、幸せ感に浸る余裕はないのです。

はじめの目標が、つぎつぎ入れ替わり、
努力し続ける人生の形態はちっとも変わらないのです。
おそらく一生そんな状態のまま、
日替わりメニューみたいにつぎつぎと目標が出来てきて、
意思半ばにして人生を終えるのが通例であろうと思います。

ヒマで退屈で何にもすることがない人生よりは、
忙しく駆けずり回って人生を過ごすほうがいいのではないかと
考える人もいるかと思います。
しかし退屈と忙しさは、表裏の関係になっているだけで、
幸せになるという目標はどこへいってしまったのか。

忙しく目標を追いかけるその姿が、幸福なのですか?
(仕事に奔走する父親に向かって、
娘があるいは息子が問いかけそうな質問です。
家庭は、家族はどうなるのですかってね。)

努力する人生は、終わりがないので、一生そのままでしょう。
頭で考えた目標は、ほんとうは達成可能性がほとんどないものとか
、現実にはあり得ないものかも知れません。

達成できない目標に捧げられた人生とは、
一体何ものなのでしょう。
また、目標達成の道半ばで人生が終わったら、
それまでの人生は無駄であったということにもなります。
だから途中で死ねません。

自分はつねづね思います。
幸せは、努力する人生、あるいは努力することとは、
関係ない。努力の結果、何かを得るかもしれないが、
それは幸せとはちがうものである。
それは単に努力の成果物であるに過ぎない。

いろいろ人生には出来事が起きるかもしれないけれど、
幸せはそれらと関係がない。
幸せは求めて得るものではない。
そもそも求める必要がない。
みな手のうちに最初から持っているものなのに、
見えないし気がつかないのだと。

(2015-02-05 SNS日記より)

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