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今日であった言葉 [身辺雑記]

ドイツ人禅僧のネルケ無方さんの著書に、
ドイツの大学で聴講した話が紹介されている。

「恋をしているかどうかは、
自分にしかわからない。

愛しているかどうかは、
相手にしかわからない。」

解説するのは無粋というものかもしれない。
しかし、あれこれこれにまつわることを
言うのはかまわない気がするね。

恋をしていることに最初に気がつくのは、
自分ということなのだろう。
胸のときめきや普通でいられない自分。
これは傍の人間が、コイツ変だぞと気がつく前に、
とっくの前に自分が気がついている。

愛の方はどうだろう。
自分では普通どおりの仕草で接しているし、
格別トキメイテいるわけでもない。
しかし何気ないことがらや言葉が、
相手からすると、スペシャルな感じ、
あるいはあるエネルギーの流れが感じられる
ということだろうか。
それは傍の人間にも見えてしまうし、
さとられてしまう。

いぜんある詩を同人誌に投稿したら、
この詩の恋愛表現にうたれました、と評された。
他人にわかってしまうから愛なのか、
自分の言葉による表現だから恋なのか。
あるいは評した人が、
この手のことをことさら読み取りたいタイプで、
根も葉もないところに煙をたてたのか。

(2015-09-30 SNS日記より)

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ヨブ記を読む [キリスト教]

まったく正しい信仰をもつ義人ヨブが、
いわれのない災難に次々と遭遇して、
自らの運命を呪うというストーリのヨブ記。
じつは、若いころからヨブという名前や、概要は
聞いたことはあるものの、しっかりと自分で
読んだことがなかった。

何の因果かヨブ記のメッセージとは何なのだろうという
気持ちから、今月のはじめころから少しづつ読んでは
メモを残して、ようやくヨブ記42章を読了した。
全体を振り返り、信仰とは何なのか、人間とは何なのかを
深く問いかけている書だった。

完全なる信仰をもっている忠実な神のしもべの
ヨブを、サタンが試してみようと提案するところから
話は始まる。

サタンの提案の意図は、神のしもべのヨブの生き方への
疑惑に端を発する。つまり何不自由なく繁栄している
ヨブ一族だからこそ、なんの不満なく忠実な信仰者の
姿でいられる。しかしその身に不幸が襲ったら、
きっと神を呪うだろうと。

さっそくその試みは実行され、家族や財産やもろもろの
ヨブの所有物が奪われてしまう。
このときのヨブの言葉は、
「わたしは裸で母の胎より出た。
また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな。」
と神に向かって愚かなことは言わなかった。

そこでふたたび神とサタンの密議が行われる。
サタンの次なる提案は、ヨブの骨と肉を奪えば、
かならず神を呪うに違いないというもの。
そこで命だけは奪わないが、足の裏から頭の頂まで
いやな腫れ物で覆い尽くすという試練を与えた。

友人がやってきて遠巻きに眺めているなかで、
ヨブは七日七夜苦しみの中で言葉を発しなかった。
そしてついにヨブは、口を開く。
私の生まれた日は滅びよ、などの言葉を発する。
なにゆえ、わたしは胎から出て、死ななかったのか。
腹から出たとき息が絶えなかったのか。

こののた打ち回るヨブに対して、3人の友人が
次々といさめる言葉や非難する言葉などを
投げかける。
この部分は、とても長くて冗長に感じる。3人の友人が
入れかわり立ち代りヨブとの討論を行うのだが、それが
第4章から31章まで続く。
やがて3人の友人は語ることがなくなって
(ヨブに論破されて)押し黙ってしまう。

ここまでの友人の議論の論点はこうである。
ヨブが不信の徒となり悪に身をゆだねたのだと言う非難。
またヨブを裁く行為である。
これに対してヨブの主張は、私には落ち度がないのに
災難に遭っている。その理由を神に問いたい。
何ゆえ自分をこのような災難の目に遭わすのか。
自分は死ぬまで潔白の身であって、光を望んだのに
闇がきた。自分には落ち度はないのに、
苦しみにさいなまれて、さらに自分より若い者に
あざ笑われている。

3人の友人が黙ってしまったあとに、若い者が
やってきてヨブへの非難を始める。
これが32章から37章まで続く。
(正直、冗長である!)

そのあとにつむじ風の中から、神がヨブに向かって
言葉を発する。
神のはかりごとを暗くするものは誰か。
わたしが地の礎を据えたときに、お前は(ヨブ)は
どこにいたか。
あなたは海の源に行ったことがあるか、
淵の底を歩いたことがあるか。
雪の倉にはいったことがあるか、
ひょうの倉を見たことがあるか・・・
わたしはこれが全身と、その著しい力と、
その美しい構造について
黙っていることはできない。

(つまり自分の力の強大さや、
技の美しさ、壮大さをヨブに向かって自慢している。)

地の上にはこれに並ぶものなく
これは恐れない者に造られた。
これはすべての高き者をさげすみ、
すべての誇り高ぶる者の王である。

最後にヨブから神に対して次の言葉が発せられる。
「あなたはすべての事をなすことができ、
いかなるおぼしめしでも、
あなたにできないことはないことを。」

「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、
今はわたしの目であなたを拝見します」

このあとに神は3人の友人に対して
怒っていること、しもべのヨブのように
わたしについて正しい事を語らなかったと裁定する。

またヨブに関してはふたたび繁栄を与え、
140歳になるまで生きたと記述されている。

以上がストーリの要約版であるが、
重要なのはヨブの最後の言葉であろう。
「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、
今はわたしの目であなたを拝見します」

つまり耳で聞き、人から学び、敬虔であることはできる。
神を知っていること、頭で理解し、信仰者であると
自分を認め行動すること、これは可能だ。
しかし神を見る経験は別だということだろう。

神を信じますという言葉は、容易に誰でも
発することができる。だが、その内実は天と地ほど
開きがある。理解と会得とはまったく別物である。

(2015-09-26 SNS日記より)

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いまを基準に考えると霊魂にいきつく [思想]

釈迦の弟子で、マールンクヤープトラという人が、
人間が死んだらどうなるかを、釈迦に尋ねた。
そのとき釈迦は、何も応えなかった。

思いつめた弟子は、また別の日に釈迦に尋ねた。
今日こそ答を聞きたいのです。
お答えしてくれないならばこの教団を去ることに
なるでしょう。

そのとき釈迦は、毒矢のたとえを言った。
毒矢に射られた人が、この毒矢は誰が射たもので、
いかなる弓により射られたものか、それらが
明らかにならないうちはこの矢を抜いてはならぬ、
といっていたら、それらが解明されないうちに
男は死ぬであろう。

マールンクヤープトラよ、霊魂があるのか、
来世があるのか、死後の世界があるのかどうか、
それらの問題に答えたところで、
われらの苦の人生の解決にはならない。
われらがすべきは、この苦なる人生の克服である。
私の説かないことは説かないままに受持するがよい。
また私が説いたことは、説いたままに受持するがよい。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

先日、H先生にお会いしたとき、先生はふたたび
霊魂が存在して死後の世界があるのだと考える方が、
死の苦しみが減る、あるいは和らげられる
というような趣旨のことを言われていた。

死の不安に対して、死後の世界があって幸福なまま
(つまり天国のような幸福な世界が待ち構えていて)、
その世に移行できると考えることで、安心感が増すという
捉え方だった。

しかしその説を聞くたびに、ボクは居心地が悪い。
いまの死への不安の解決のために、
来世があるとか無いとかの信仰が決定付けられるのは、
順番が逆。
来世があると信じられるから、安心立命できる、
というのが本来の順番というものだろう。

釈迦の言われた言葉通りであると、ボクは思う。
来世があるのかどうかなどはわからない。
むしろ死の不安というものが、何故に生まれて
くるのかを解明することが先であると思う。

それにH先生の心の中に、驕りのかおりを
感じとってしまう。
いまの生活を基準に(いまの幸せな生活を基準に)
死というものを考えると、いまの生活の放棄、崩壊、
大いなる減額というふうに必然的になる。
なぜなら今が普通で当たり前の生活とみなしているために
死はすべての喪失とならざるを得ない。
現在が、平凡だけれど普通のゼロの状態としてしまえば、
死とはマイナスの極地であろう。

霊魂を想定するのは、死んだあとでも今のような
恵まれた普通の生活が欲しいという欲望なのだ。
今を手放さない、死後までも手放さないのである。

ボクはいつの頃からか、それは違うと考えるようになった。
いまの生活は大いなる祝福されたものである。
生きとし生けるものは、いのちを与えられ祝福されている。
今が恵まれて、ありがたいものだと受け取るようになった。
そして死ぬことは、その恵まれたものをお返しする儀式
というふうに考えるようになった。

死ぬとは、恵みを捨ててゼロになることである。
この死のゼロの状態が、普通で当たり前である。
(ほんとうはこの状態こそが、すべてを育んでくれる
大いなる世界なのだが)

死の不安を解消しようとして、あれこれと捜し求めて
フラフラとさまようこと。それは十分に祝福され
与えられているいのちを喜んでいる姿勢ではない。
そのことに気がつかないで、
どこかに喜べるものがあるのではと捜し求めている。
しかしもうすでに、それを手にしているのに、
まだ追い求めている貪りを感じてしまう。

白隠禅師が、座禅和讃で謳っている。
・・・
衆生近きを知らずして
遠く求むるはかなさよ
譬えば水の中に居て
渇を叫ぶが如くなり
長者の家の子となりて
貧里に迷うに異ならず
・・・

もうすでに救われている。
救いを求める必要は無い。
救われていることを知るだけでよい。
現に祝福されているのだから・・・
霊魂があろうがなかろうが、それは左右しない。
そんなことを、心の中でつぶやいたわけだが・・・

(2015-09-22 SNS日記より)

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