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幽霊の考察 [科学・技術]

先日、本屋さんをブラブラしていたら
(しょっちゅうブラブラしているのであるが)、
超常現象をマジメに研究している先生がおられて、
なおかつ本を著されていた(※)。
じつに奇特な先生がおられるものだと感心して、
購入し読み始めた。

最初の章は、幽霊について書かれていて、
「はん幽霊論」という広い概念を提唱されている。
先生は、不定期に「はん幽霊論研究会」も開催されている。

「はん」というひらがなは、3つの意味を持たせたいとのことで、
「反」幽霊論、「半」幽霊論、そして「汎」幽霊論だ。
この順番で、幽霊への親密度というか肯定度合いが増す。
賛否両論、中間層も含めてマジメに議論しようではないか
ということなので、この立場は自分もアグリーであった。

本の中で紹介されている、否定論者の代表格の心理学者
リチャード・ワイズマン氏の研究結果は面白い。
幽霊屋敷と名高い場所へ、霊能者たちを集めたそうだ。
そして、ひとりひとり別々に屋敷内を歩かせて、
どこで霊感を感じたかを記録していく。
その結果、霊感を感じた場所は、霊能者によって大きく異なっていた。
しかし、そのなかで霊感が感じられやすい場所が出てきた。
それは、台所だった。

ワイズマン氏の解析結果は、
(1)霊感は幽霊がそこにいるから感じられるものではなくて、
   それぞれの霊能者の感覚で、霊感が適当に報告されている。
(2)台所ではそうした感覚が導かれやすく、
   その手の刺激が多いので、たまたま多く報告された。

古い屋敷の台所のようなジメジメして薄暗いところは
幽霊スポットになりやすいということだ。

幽霊がそういうジメジメして薄暗いところを好むのだろうか?
わざわざ、気持ちの悪い場所を、幽霊は好み、住みつくのであろうか?
この問いは面白い。幽霊にとって、
このような場所は出現に好適な場所ということなのだろうか?

妄想の激しいボクは、こんな疑問に逢着してしまう。
なぜ昼間の明るい時間帯の、人がたくさんいる場所には、
幽霊は出現しないのであろうか?
ディズニーランドのような、人々が陽気に楽しんでいる場所に
なぜ出現しないのだろうか?

この本の著者の見解は逆である。
人間にとって「幽霊のいそうな気持ちの悪い場所」だからこそ、
霊感が感じられるということだ。
つまり人間側の都合の「気味の悪いところ」で、
人間の感覚は(恐怖も手伝って)鋭敏となり、
霊感を感じやすいのだということだ。

『(幽霊が)見えるから、怖い』
というのだが、じつは、
『怖いから、幽霊が感じられる』
という逆転が起きているということである。

こういう人間の認知機能から幽霊現象を読み解くという
認知情報論という分野があるらしい。
ますます興味深いな。

※石川幹人著『「超常現象」を本気で科学する』新潮新書より

(2015-08-27 SNS日記より)

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マタイ受難曲から [音楽]

バッハのマタイ受難曲は、大曲ではあるけれど、
マタイ福音書に沿って、イエスが受難するまでの
ストーリを聖句や賛美歌、自由詩などで構成する。

自分が日々繰り返し聴くのは、たった一曲なので、
バッハに対して失礼かもしれないなと思う。
しかしその理由もそれなりにある。

それは「ペテロの否認」のあとに歌われる第39番の
アルトのアリア。バイオリン曲として独立して演奏される
こともある切ない旋律である。

ある人はマタイ受難曲の中の最高峰、いやアリアの中の
頂点に位置するとまで言う。自分もほぼ賛同したい気分。
大げさに言えば、人類史上最大の嘆きと後悔の歌と
言っていいのだろうと思う。

なぜなら、いちばん弟子と自認していたペテロが、
イエスが逮捕される晩に、意に反して(?)、
3度の裏切りの言葉を発してしまったからだ。

イエスの逮捕劇が進行する庭で、遠巻きに見ていた
ペテロに対して、ある女中が、お前もあのガラリア人
イエスと一緒にいたはずだと指摘する。
ペテロは、あなたが何を言っているのか分からないと
否定して、出て行こうとする。

と別の女中が、やはり言う、この人はイエスと一緒だった。
するとペテロは、そんな人は知らないと否定する。

そのうち周りの人々が集まって、
あなたは確かに彼らの仲間だ、言葉づかいでわかる。
対して、ペテロは3度否認する、
その人のことは何も知らないと。

人間の関係のなかでいちばん辛らつなのは、
知っている人に対し、知らない、自分は無関係だ
と言ってしまうことだろう。
命にかけてイエスについて行きますと、
先刻誓ったばかりのペテロだった。

3度目の否認のあとに、イエスの予言どおり、鶏が鳴く。
ペテロはそれを思い出し、外に出て激しく泣いた、
と福音書は記述する。言葉は短いが、
いい年したオヤジのペテロが外で激しく泣いたということだ。

39番のアリアは、この後悔と神への憐憫を請う曲である。
バッハが作った歌詞はやはり短い。
しかしこれ以外にないのだろう。

「哀れんでください 私の神よ!
私の涙ゆえに!
私をご覧ください
心も目もあなたの前で
激しく泣いています」

Youtubeで検索すると、たくさんの歌い手が
アリアを歌う動画が出る。
お気に入りの歌を数曲、iPhoneにダウンロードして
次々と聴く。繰り返し。
ドイツ語はよく分からないが、
歌詞はMein Gottだけ聞える。
やはりバッハに失礼な視聴者だ。

対訳を参照すると、憐れみたまえ(Erbarme dich)
のフレーズが繰り返し、繰り返し、
曲中にいくども現れる。

(2015-08-21 SNS日記より)

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幽霊尾の正体見たり・・・ [思想]

ことわざに、『幽霊の正体見たり枯れ尾花』というものがある。
幽霊が出た、あ怖い!と思ったけれど、
よく見れば枯れススキが揺れていただけ、
というような意味だ。
このことわざは、意味深く味わいがある。

怖いと思った瞬間は、幽霊はそこに居るのだ。
しかし目覚めてみると、ススキが揺れている影だった。
錯覚といってしまえばそれだけのことだけれど、
錯覚に陥っている間は、まさにそれは真実なのである。
覚めなければ、ずっと錯覚のまま、幽霊は居続ける。

だから錯覚の中に居る人と、錯覚から目覚めた人とは
話がかみ合わない。

こんな思考の構造を考える。
知覚があるとき、その対象物がたしかに向こうに実在すると信じる。
幽霊のようなものを見れば、幽霊は居ると信じて逃げる。
刺激が、実在を想像させるということなのだが、
刺激を起こす何ものかはあるのだが、
その大元の実在があるのかどうなのかはにわかに断定できない。

つまり
知覚(幽霊を見た)→知覚の原因(実はススキがゆれる?)→実在(幽霊が居る)
という流れがあるのだが、たいていは中間が抜けて、
知覚(幽霊を見た)→実在(幽霊が居る)
となってしまう。
この後者の考え方は、『素朴実在論』である。

色の話でたとえるとこんな感じである。
青色と黄色を混ぜると、緑色になる。
青色に見える顔料と、黄色に見える顔料を
ただ並べて一緒に目に入るようにすると、
緑色に見えてしまう。

目の刺激(緑色に見える)→青色の刺激と黄色の刺激(波長)
            →青色顔料と黄色顔料

実在と刺激とが一致せず、緑色の顔料という実在は無いが、
緑色に見えるということだ。

幽霊を見たときに、実在として幽霊が居るのかどうかは
にわかに断定できない、はてな?ということになる。
事実、これほど幽霊画像や動画が発表されていながら、
その実在性を検証し、たしかに物理法則を越えた
不思議な実在があるという結論を、寡聞にして聞いたことが無い。
刺激のレベルの話ではなくて、その刺激を起こしているものが、
これまで知られた実在ではなくて、超常的な実在によるもの、
信じがたいものによっていたという検証だ。

何遍やっても物理法則に従わない、不思議な現象・・・
ものが浮くとか、勝手に動くとか、
何も無いところからものが現れたり消えたりする。
明らかに生きていない人間が活動している。
壁をすり抜ける。
空中から音声が聞こえる。

もしあったら教えていただきたいな。
それはワクワクする体験である。
物理学の発展に寄与する大発見かもしれない。

注1)ただし極微の世界の量子論の世界では、
   非日常的な不思議な現象や、壁のすり抜けは日常茶飯事です。
注2)カントの純粋理性批判では、物自体を認識することはできず、
   人間の認識形式の中にはまったものだけを受け取るのだ、
   と主張しています。
   また唯識思想は、こころは外の世界に出たことが無いという
   論を展開します。この辺の話は、また。

(2015-08-16 SNS日記より)

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