SSブログ

生きる (自分のためのメモ) [人生]

ボクたちの思考のほとんどは、
自分中心的な立場からおこなわれている。
つまり利己的ということだ。
自分はなぜこんな目に遭うのだろう。
なぜ苦しむのだろう。
どうして損ばかりしているのだろう。

驚くべきことに、この世で恵まれた人、
生まれながら裕福である人、
幸福な家族に囲まれている人も
やはり悩みを持っていて、
もっとお金を持ちたいとか、
もっと気の合う人とめぐり合いたい、
などと考えている。

こんな風にして一生いい目を見ることなく、
死んで行くに違いない。
少し努力して生活を改善しようとしたり、
恵まれた階層になろうとして苦労するかもしれないが、
これで満足という心境にはならない。
欲望には限りなく、利己的立場に立つ限り、
いくらでも自分を肥えさせる方向にしか
生きることが出来ない。

このような人生になってしまうその根本原因には、
自我を野放図にしていることによるということは
なかなか気がつかない。

苦難のなかに自分がいると分かっても、
やがて事態が好転するかもしれないし、
さらに悪化するかもしれない。
これからやってくる未来は誰も予想はつかない。

そんな中で、いま自分の居るところは、
この現在の状況なのだと徹底的に理解して、
この現在の状況の中にどっかと座り込んでいるならば、
苦難の中にいながらも、その苦難を苦とする意識は
生まれない。

なぜなら苦難だと認識する自己分裂を
引き起こさないからだ。
苦難に遭っている自分を、
哀れむように他人事のように見ている自分がいて、
なんと可哀想な自分なのだと、
外から評価することをしないからだ。

深刻な病の床にありながら、
そのことに何の苦も述べ立てない人たちがいる。
それは苦の中にどっかと座り込んでしまった人だ。
現在を引き受けて受け入れてしまった姿勢だ。

損をしているのだろうか?
何に比較して損をしているのだろうか?
通常の健康な生活を送っている人との比較だろうか?
病にある自分の中に、健康な自分を想像して、
それを比較するからだろうか?
ひょっとして健康な生活を送れたかも知れない自分を
頭に思い浮かべ、損していると嘆くのだろうか?

(2015-04-02 SNS日記より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

馬祖道一のはなし (自分のためのメモ) [禅]

インドから中国に伝えられた禅仏教は、達磨禅師から始まり
すっと何世代もの禅匠のあいだで伝承されました。
その中に馬祖道一という禅匠がおられます。
師匠の南嶽懐譲との問答が無門関という書に伝えられていますが、
これが気になる話です。

馬祖がまだ修行中のあるとき、座禅を組んでいました。
そこへ師の南嶽がやってきて聞きます。
お前は何をしているのだと。
仏になるために座禅をしています、と答えます。
すると南嶽は瓦の破片をひろって、
石にこすり付けて磨き始めました。
何をしているのですか?
この瓦を磨いて鏡にするのだ、と答えます。
瓦を磨いたところで、鏡にはなりませんと馬祖がいうと、
座禅を組んで仏になるものか、との師匠の答え。

ではどうしたら仏になれるのかというような話が
続きますが、それは省きます。
座禅を組んで悟りなど開けるものか
と言った南嶽の気持ちが、気になるところです。

修行しなければ悟りを開いて仏にななれないのですが、
座禅などの修行なんかしても、
仏にはなれないというのですから。

でもボンクラの自分にも、
半分くらい南嶽の気持ちが分かります。
今風にいえば、どうしたら幸せになれますか?
という質問に、
努力して幸せになる方法を積み重ねたって、
なれるものか、
と言っているのと通じるものを感じるのです。

こうすれば幸せになれるというセミナーや教えが、
あったとします。
幸せになりたい一心で、一所懸命その教えを
習得しようとします。
でも結果として幸せにはならないのです。

幸せになりたい人は、不幸の中にいる人です。
すでに幸せな人は、幸せになりたいとは思いません。
不幸な人は、努力して幸せになる法を身に着けて、
幸せになろうとします。
でも目的は遂げられないのです。

理由は簡単です。
自分は不幸だと思っているから。

そして、いつの時点で不幸じゃない、
自分は幸せだと思うようになるのでしょうか?
セミナーの教えをすべて習得したときから?
その瞬間に、幸せを実感するのでしょうか?
習得の瞬間が、幸せの瞬間なのでしょうか?
それまで不幸だったのに、
幸せがドンとやってくるのでしょうか?

よく考えれば、おかしな話です。
幸せが、自分の外にあると思ったときから、
幸せと自分は一体になることが出来ないのです。
幸福の法を聞き、それを理解したことで
一体になると考えるのは浅はかで、
相変わらず不幸の中に自分が居ます。
何かを外に追い求める自分は変わりません。

幸せの真っ只中に自分がいると言う
言い方しかありません。
幸せと一体になっている自分がいる、と。

馬祖と南嶽の問答は、まだ続いていて、
どうしたら仏になれるのかと馬祖は問います。
南嶽の答えは、仏になるのではない、
自分が仏と一体であったと分かることだと答えます。
(多少意訳があります)

この師の答えで馬祖がわかった!と
叫んだかどうかは伝えられていません。

(2015-03-28 SNS日記より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

自分の価値が・・・ (自分のためのメモ) [人生]

自分には価値がないとか、重要感が感じられないとか、
つきつめた悩みに苦しむ人がいるらしい。

その苦しみの話しを聞くたびに、ボクは妙な気持ちになる。
むろん悩みに応えることなど自分には出来ない相談だが、
と同時に、なんとも居心地の悪い気分にさせられる。

理由はなんだろうか。
それを考えるときに、
道元禅師のことばが、自然と浮かんでくる。
『自己をはこびて万法を修証するを迷とす。』
(正法眼蔵 現成公案)

しかし悩む人には、その意味は伝わらない。
意味が伝わるようならば、悩みはしないのだろう。

結論からいってしまえば、
自分の価値などについての悩みや苦しみは、
道元さんに言わせれば、迷いのひとつなのだ。
その悩み自体が、迷いなのだと。

だから迷いに対する、正しい答えなどない。
自分に価値があるのでしょうかと聞かれても、
その問いはまちがいなのだから、
答えも無く、答えようもない、ということになる。

あなたには価値がありますという答えもおかしいし、
まして価値がありませんというのもまちがっている。

口をきく絶対者がいて(つまり神)、
お前の価値はあるのだと宣言してもらうと、
何がが起きるのだろう・・・
何が変わるのだろう・・・
じつは何にもそこには変化がおきないのではなかろうか。

また、お前の価値は無いのだと神から宣告されたら、
判りましたと、即刻ビルから飛び降りるのだろうか・・・

自分の価値という概念を、そんな問いで、
弄んではいけないと思う。
弄んでなんかいない!と叱られそうだが、
まちがいなく弄んでしまっている。

自己の肯定感を得たい、
自分の価値を感じたい、
それが感じられない、わからない。
それをを感じれるようになりたい。
それは神の仕事の領域ではないか。

(2015-03-17 SNS日記より)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。