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卑下もしない、増長もしない (自分のためのメモ) [人生]

日本の道徳観に、謙譲の美徳というものがあります。
むやみに自慢するものではないという教えです。
あるいは自分を低くするものは、
偉い人物なのだという見方もあります。

この教えとか道徳観を、うのみにして生きていくと
次第に人生が窮屈になります。
それは謙遜すること自体がいいことだ、
自慢することがよくないことだという別の価値観になってしまうから。

ほんとうは、優れた人格を有する人は、
「おのずと」腰が低くなり、「おのずと」自慢をするようなことがない、
ということを言っているのに、順番が逆になっているのです。

腰が低くなれば、あるいは自慢をしなければ、
優れた人格を有しているだろう、
優れた人物と見られるだろう、と読み解いている。

そして自慢すること自体を禁じてしまう。
あるいは自分を卑下することがいいことだ
という価値観に置き換わってしまう。
これは倒錯しています。

●●●

ところで自分の価値が果たしてあるのだろうか、
無いのではなかろうか、という疑問にとらわれてしまうことがあります。
自分の価値が分からない、感じられないという病です。

ボクは単純に考えます。
それは自分が心配する話ではないと。
そんな大それたことを判断する自分ではないと。

なぜなら自分はみずから自立したわけではないのです。
多くの助けのもとで、何とか生きてこられたのが実情です。
助けてくれた多くの人や物があって、現在が自分があるのはないか。

なのに、その自分に価値があるのだろうかというのは、
自分を支えてくれたものや生かしてくれるものの価値すら
疑問視していることになって、とてもヘンなことです。

贈り物をもらってそれを元に生きていられるのに、
その贈り物には意味があるのだろうかと疑問を突きつけている。
おのれが神ならば許される疑問だろうな、と思うのです。

自分の価値を否定するということは、
自分が神と同等の位置にいるのだ、ということの表明でもあります。
じつはとても尊大なことを言っているのです。
そんな偉い自分だったのだろうかと思います。

卑下することもないし、自慢することもない、
そんな感じを抱いて生きてます。

(2015-01-25 SNS日記より)

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感情と快楽 (自分のためのメモ) [人生]

感情におぼれるとき、そこには快楽がある。
快楽があることを深く了解しているので、
感情に溺れるのかもしれない。

自分に不都合なことを言われたり、されたとき、
怒りの感情が湧く。
その感情を爆発させる直前に快楽の誘惑がある。
感情を露出するとき、心地よいのだ。

また、悲しみの感情に溺れるとき、
それは快楽の部分を含む。

しかし感情に飲まれ溺れの階段を下りてしまうと、
すでにその快楽のことは忘れてしまう。
快楽があるのは一瞬のことで、
感情を露出すると決めたとき目的は達成されたのだ。

だから、感情の爆発の前には、少しの間があり、
どうするかをほんとうは選択できる。
この快楽に身をゆだねるか、やめるかを選択できる。
とても微妙な話だ。
この間のことに気づくかどうかが、
ひとつの分岐点になる。

快楽を拒否する道もある。
しかし、この快楽を止められず、
感情を爆発させることが習慣になる人もいる。
ほとんどの場合は無意識的に移行してしまう。
自覚できることは稀だ。
しかし自覚できたとき、自由を得ることは確実だ。

☆☆☆

ブッダは教えた。
『われをののしった、
われを笑った、
われを打ったと思う人には、
恨みはしずまらない。
恨みは恨みによってしずまるものではない。
恨みを忘れて、恨みはしずまる。
法句経 三、四』

恨みの感情に身をゆだねるとき、
そのことが快楽の一部をなすため、
それを手放したくない、
恨みにしがみつきたい、
恨み続けたいという矛盾した気持ちがある。

ほんとうは感情は一瞬のことだ。
本来、感情は持続するものではない。
流れ続けるものだ。
もし、恨みのように持続するのなら、
それは薪をくべている者がいる。
燃料を注ぎ続ける者がいる。
それは自分自身だ。

(2015-01-18 SNS日記より)

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