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心霊現象だいすき [日常]

なにを隠そう、じつは心霊現象やUFOなどは大好きなクチだ。
夏になるとTV番組の特集が組まれ、まちがいなく観ている。
家族もすでに諦めていて、チャンネル権を渡してくれる。

自分が心霊現象に興味を持つのは、じつは技術者の魂というか
科学的な関心から出てきていることを自覚している。

そんな不思議な怪現象がもしこの世にあったら、
物理学の根底が崩れるだろうなとか、
新しい世界や次元の発見かもしれないという「期待感」、「わくわく感」は
捨てがたく、想像するだけでたまらない気分になる。
そういう意味では、心霊現象を信奉しているというよりも、
そんな現象を見せてほしい、現れてほしいという、
心霊現象待望論に近い。

ところがせっかく意気込んで番組を見るものの、
最後まで見ることはめったに無く、
やおらTVチャンネル権を放棄し、自室に戻ってしまう。
嘘さ加減にあきれるやら、矛盾していたり、バカバカしくなって
時間がもったいないな、と我に返るのだ。

たとえばこのごろ流行している心霊現象は、
動画撮影していた家族などのアングルの片隅に、
一瞬、恐ろしげな顔が映り込むというもの。
今季よくみるのは、顔が半焦げになったような、
あるいはゾンビみたいな黒い肌の女性の顔。
目はたいていパッチリと見開いている。
暗闇の中から、こんな顔が瞬間現れたらホントびっくりする。
でも、今季の流行らしくこの手の顔が多いのに気がついた。
不思議なことに、心霊現象にも流行があるようなのだ。

先日、TV番組『マツコの知らない世界』で、UFOビジネスの紹介をしていた。
明らかに人間が作った映像なのに、それがビジネスになるというお話だ。

車を運転していたら、目の前をUFOらしきものが前方から
接近し、やがて車の後ろに去っていく。
紹介されたこの映像は、じつに「美しく」、「すばらしいもの」だった。
で、ほぉと思ったのは、この動画とは別に、
このニセ動画をいかにして製作したかというネタばらし動画も発表されている
ということだ。じつは自動車を含めて、CGで製作していたのだ。
UFOの詳細が写りこんでいて、ワクワク感があったが、描きすぎという感も
しないではなかった。
UFOビジネスとは、この2つの動画をセットを売るのである。
いろいろな国で放映されるTV特集番組で使うということで、
ひっぱりダコになるということなのだ。

ニセを楽しむ・・・
どれだけ本物に近いか、そのフェイクぶりを楽しむ・・・
というちょっと高度な文化になりつつある。
成熟文化というべきか。

動画編集や画像の編集の技術やテクニックを知っている人ならば、
いかに「いい」ウソ画像を作るかという課題に対して、
腕がなるという気分を理解することができるだろう。

過去、有名となったニセ画像のいくつかがある。
・ミステリーサークル:
 夜間に棒状のムギを引き倒す道具を使ってぐるりと回る。
 いかにきれいな円形のパターンを作るかの技のみせどころ。
・ネッシー:
 ひとかかえほどのちいさな首だけのネッシーを模型船につけて離れて撮影。
 画像をトリミングしてそれらしく見せている。
 ちなみに前から、波の大きさとネッシーの大きさが不釣合いだなと
 感じていた。
・妖精写真:
 紙に描いた妖精の人形を撮影。みょうに妖精がくっきりと写っていた。
・ロズウェル事件で捉えられた宇宙人:
 フィギュアースケート選手の演技フィナーレ写真を縮小し、
 人と一緒に撮ったと暴露。
・河童など、妖怪のミイラ
 聞くところによると、魚や小動物を解体して、不思議生物の
 ミイラを作る技術と技術者がいるらしい・・・

ちなみに天国とか地獄があるのかないのか、
臨死体験で出現した世界はほんとうにあるのか、
など興味深い話題がたくさんあるけれど、
長くなるので、また。

はやくワクワクさせるような新現象は出てこないものかな・・・

(2015-08-13 SNS日記より)

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二人のバーベキュー [いのち]

猛暑続きの毎日。
夕刻に、家内と二人で庭に出てバーベキューをした。

庭木の折れた細枝を使って火起こしをして、炭火を作る。
焼き鳥、ウィンナ、庭で採れたかぼちゃ、ピーマンなどを
焼く。今日は、自分がトンクで焼く係りをする。
続いて、魚のひらき、牛肉などを網に載せる。

家内とたわいの無い会話をしながら、
頭の中ではいろいろな思いや疑念などが渦を巻く。

こうして自然のものや生き物であったものが
人間が口にしておいしいと感じるのは何故か。
TV番組で生産者のところへレポーターが行き、
新鮮野菜を丸かじりすると、とても甘いなどという。

人間が口にするものは、鉱物をのぞいて
基本的に生き物しかない。
また、イキがいいほどうまいのだ。

豚や牛などの動物の肉、そして米や野菜など、
植物の茎、葉、そして実だ。
人間は、生き物がおいしいと感じる感覚が備わっている。
それはなぜなのだろう・・・

昔聞いた話では、人間にとっていちばんおいしく感じるのは、
自分自身にちかい動物であると。

じつは、この世の作りからいって、このことは自然である。
人間の口にするものは生き物しかない。
生き物を食べることによって、人間は自分の身体を
維持する。他の生き物の形成した栄養素を
摂取することで自己の身体を維持しているのだから。

もし、それらの生き物の味が苦痛であったなら、
人間は食欲を失い、生きる動力を失う。
美味しくなければならないのだ。

生き物の世界は不思議に満ちている。
食物連鎖の頂点に人間は立っているが、
それぞれの動植物は、それより弱いものを
捕食したり滅ぼすことで生きている。
大きな魚は小さな魚を丸呑みし、
小さい魚は小さな海老などを食べる。
海老はプランクトンやコケなどを食べる。

いのちを与えられながら、そのいのちを
奪い合うこともやっている。
頂点に立つ人間も死ぬときは焼かれて
二酸化炭素と水とわずかな骨に分解する。

二酸化炭素は木々に吸収されて、木の一部になったり
酸素を作る材料となる。水は空の上って雲を作るだろう。
骨は根に吸われて植物の骨格に変化することだろう。

こうしていのちの連鎖と物質の連鎖を
巧妙に続けながら、この世界がまわっている。
その一部の部分に自分の命がかかわり、
体が組み込まれている。

あ、牛肉が炭になってしまった・・・

(2015-08-04 SNS日記より)

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ちょっと詩的にいうならば・・・ [禅]

「もしあなたが詩人であるならば、この一枚の紙の中に
雲が浮かんでいることを、はっきりと見るでしょう。
雲なしには、水がありません。水なしには樹は育ちません。
そして樹なしには紙ができません。
ですからこの紙の中に雲があります。
紙と雲は、きわめて近いものです。
・・・この小さな一枚の紙の存在が宇宙全体を表しています。」
   ティク・ナット・ハン『仏の教え・ビーイング・ピース』より

ティク・ナット・ハン氏は、ベトナム出身の禅僧で詩人、平和活動家です。
ダライラマ氏と並んで、現代の代表的仏教者といわれています。

この言葉の意味は、仏陀の悟られた縁起の法を表現したもので、
存在は孤立無縁ではありえない、
依存しながら存在が変転しているさまを、詩的に述べたもの
と受け取っています。

ボクたちは、孤立することができないし、孤独になりえません。
このことの意味を深く了解すると、世界の見え方が、
ガラリと変化してしまいます。

たとえば空気を吸ってボクたちは生命を維持しています。
ほんの10分ほど、周りの空気が遮断されたら、
みな死に絶えてしまいます。間違いなく・・・
(この話をするとき、いつも思い出すのは、
『トータル・リコール』という映画。
主役のシュワルツェネッガーが、火星の大気中に放り出されて、
顔を真っ赤にしながら窒息しかかって足掻くシーン。
ま、関係ない話ですが)

この空気は、あって当たり前のもの、ロハ、つまりだれも対価を
払っていません。
古代の地球の大気は水素とヘリウムが主な成分だった時代があり、
やがて二酸化炭素に変わったようです。
酸素は光合成を行う植物の出現により、生み出されたものです。

ついでに言えば、ボクたちの血液中のホモグロビンの中核の鉄原子。
これは太陽系で生まれたものではなく、遠いところの超新星の爆発で
飛び散ったものを材料にしていると分かっています。
太陽は、単に水素を核融合してヘリウムにして燃えているわけで、
それより重い元素を作る能力がありません。
宇宙空間に漂っていた星の残骸の重い元素を、
太陽の引力が引き止め、掻き集めて惑星にしたといわれてます。

したがって間違いなく宇宙の子なのですが、
そんなことは普段まったく考えません。
空気があるのは当たり前、それが吸えるのは
トーゼンでしょ。そんな感覚で生きています。
自分の都合で生きているだけという状態です。

しかし科学的に分かっていることを並べていくと、
人間の生命は、周りのもろもろのものや事柄を、
わがものとして取り込み吸収して生きている姿になっていきます。
それを仏教者は、宗教的な直覚から核心を理解しているわけです。

ボクたちは周りのものを取り込みながら生きていると書きましたが、
ほんとうの姿はもっと違うものかもしれないと思います。
周りのものが(何かに)集合させられて、
今ボクたちの形となって生きている・・・、
生きている主体はよく分からないのだが、
それをとりあえず自分としてしちゃえ・・・
自分とみなしておこう・・・

これってへんかもしれませんが、この辺がより真実に近い、
ほんとうの姿かもしれないなぁ・・・と想像することがあります。

以前の日記に記したことですが、アメリカで禅の普及に努めた
禅僧の鈴木俊隆氏の言葉が思い浮かびます。

「君たちが1枚の落ち葉を見たら、ああ、秋が来た!というだろう。
1枚の葉はただの1枚の葉ではない。それは全体の秋を意味する。」

http://smcb.jp/_ps01?post_id=6249160&oid=515060

(2015-07-02 SNS日記より)

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