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あんまり好きじゃない [人生]

当たりまえのことと受け入れられている言葉で、
好きじゃない言葉がいくつかある。
きれいごとを言っていて、オブラートに包まれているが、
その実、真実ではない。

「人に迷惑をかけない人間になれ」

→迷惑をかけないで、人は生きれるのだろうか?
→ あなたが試験に受かるとき、どこかで
  ひとり試験に落ちる人間がいる。
→体に障害があって、人の介助が必要なときに、
 この人は人に迷惑をかけざるを得ない。
 そのことを自罰的な感情を持って生きなさい、
 と言っていることにつながる。

じつは今日教育TVで、ナチスの障害者虐殺の歴史を報じた番組を観た。
知的障害や、身体的な障害のある者のうち、
労働が可能な者は子供を生めなくなる手術を行い、
労働できないものはガス室で虐殺した。
それを医師たちがすすんで行った。
そのような歴史を、ドイツの精神医学精神療法神経学会の元会長が、
ほんの5年前に公開し、謝罪した。
虐殺された数は20万人。
しかもユダヤ人虐殺(その数600万人!)のリハーサルとしておこなわれた。
自国民ドイツ人に対してである。
すべては優勢な遺伝子をもつ国民を作り上げるためである。

この虐殺行為の根幹にある思想は、労働にこそ価値がある、
したがって労働に寄与できないものには、
生存の価値が無いというものである。

ナチスほど極端でないにせよ、迷惑をかける人間は、
人として問題があるのだと考える思想は、
やがて自立していない人間や、介助が必要な人間は問題だ、
価値が低いのだ、という差別感に必ず落ち込んで行くだろうと想像できる。

迷惑だという感覚が、その人への(その人のいのちへの)価値判断になることが、
どうにも承服しがたくすっきりとしない。

人間が掲げ作った価値基準で、人間の価値を云々することの危険性、
神のみが振るうことができる刃を、
僭越にも人間が手にしてしまった危険性である。

(2015-09-16 SNS日記より)

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妙好人東政二さんの言葉 [浄土真宗]

妙好人の東政二さんの言葉を初めて聴いたとき、
しびれるような直感が走った記憶がある。
このひとはすごい、ほんものだ、と。

浄土真宗の信徒の方。
信仰に到達した人しか語れないことを、
さりげなく口にしている。
しかし回心したときのことを、
とくに語った記録はないようで、
おそらく一度も口にしなかったのだろうと思う。

妙好人の研究家楠恭氏が、ご自身の親戚の
お寺に立ち寄ったときに目にした布教誌、
『地湧人』の記事で東さんを見い出したのだという。

「自分は仏法の真理を今という時、ここという場所で
いただいている。」

「人間の体質は分別心で、従って功名心、我欲が
根性である」

「心というのものはふらついている。
その心で仏法を聞こうとしたら駄目なんです。
動き通しの心で仏法を聞くと、
必ず自分の都合のいいように聞いてしまう。
心で聞くのではなくて、動き通しの心を如来の本願の
上に建てるのである。
身体というものは人間の心の思いが通用しないものです。
身体は自然の道理、如来の真実で動いているからです。
ですから仏法は身体に聞くというのです。」

このような言葉は、自我という、ちっぽけな心が
打ち砕かれた経験をしないと出てくるものではない。
さんざん自我のたくらみに自分がだまされて、
まただまされて、繰り返しだまされつくした経験がないと
出てこない。ついに自我に絶望したところを
通過しないと出てこない言葉だ。

東政二さんは、1992年7月28日に93歳で
亡くなられている。次の言葉は、政二さんが
92歳のときのことばである。

「わしは九十二歳までこんなに長生きできようとは
夢にも思わなかった。人間長生きするだけが能じゃない。
長命でも短命でも仏智の働きに気付かせていただいて、
初めてこの世に出てきた意味があると思うのや。
わが身は仏の智恵で出来上がっていて、
仏の智恵がゆきわたっていることに気付かずに、
分別に捕らわれて、煩悩に駆られて、
欲得の功利心だけで長生きしても、
それは無明煩悩が長生きしただけや。
仏法を聴聞する際に、分別心で仏智を聞いては
駄目なんで、仏智は自分の身体で聞くんや。
なぜなら身体は自然の道理という真実を
語っているからや。」

絶望した果てに、自分というものが無くなってしまった
その瞬間に、自我により自分が生きていたのでは
なかった、という回心が生まれる。
東さんにその体験を語っていただきたかったなと思う。

(2015-09-11 SNS日記より)

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自力と他力と [宗教]

とある会合で知遇を得たH先生という方が、
あるちいさな読書会を主催している。
生き死にを考える会というものだ。
先月に、初めて参加(見学)させていただいた。

先々月までは、臨死体験について書籍などを
調査し語り合うという活動をされたということだった。
そして先月8月から、仏教とくに禅宗に焦点を当てて、
悟りの内容などについて調べていきたい・・・
テキストはこんなものにしたい・・・
という説明があった。

参加メンバーは、ほぼ女性で、宗教にはとうぜん
関心が高い。救いというものをどこかでもとめている、
そんな印象も感じた。なかには浄土真宗に
強い関心をもたれている方もいる。

新参者の自分は、終始話を聞く側にまわって
おとなしくしていた。
とくに付け加えるようなことがらもないし・・・
ただ、宗教に救いを求めているようすなのだが、
ほんとうは、みんなすでに救われている・・・
そんなことを思っていた。

会の最後に差しかかったときに、
隣の女性が訊いてきた、
いかがでしたか、会の印象は?

ええ、そうですね、
難しい問題ですね・・・
とあいまいな答えをするうちに
話題は別のところへ移り、
ひとしきり話が回った。
そこで帰り支度をしようと思ったら、
ふたたび先ほどの女性が訊く、
いかがでしたか?この会は?

感想を言わずに帰るわけにはいかないぞ、
とでも言っている感じなので重い口を開いた。

自分は若いころから宗教や哲学、文学と
さまざまな書籍のなかを放浪してきた。
とくに禅の書籍は何十年間もいちおう読んできた。
最近は、浄土真宗の関係の書籍を読むことが多い。
とかなんとか言っているうちに・・・

浄土真宗に関心のあるという方が、
禅宗と浄土真宗はかなり違うものではないですか?
と質問をぶつけてきた。

いや目指すところは同じだと思いますよ、
アプローチがまったく異なるけれども。
この言葉が、ますます火をつけてしまった感じ。
隣同士のおしゃべりだったのが、
会全体の話題になってしまう。

で、話の結論として、
次回にその話をせよということになってしまった。
資料も用意してね。
目が点とはこのことだ。
そんな大した話はできない。

しかし、9月の会合がいよいよ来週に迫ってきた。
というわけで、先週からこれまで遍歴してきた
仏教の教えのまとめにかかっている。
自分の考えをいざまとめてみようとすると、
ブログの文章をダラダラ書くのとはちがって
なかなか文章になりにくい。
思っている以上に言語化されていないものだ、
という状況に直面している。

バラバラにピックアップしてみると、
ほぼ絞られてくることに気づいた。
・親鸞聖人の言葉を集めた歎異抄。
・道元禅師の正法眼蔵のいくつかの巻。
・盤珪禅師の法話。
・妙好人の東政二さんの言葉。
禅宗と浄土真宗がゴチャゴチャだが、
ようするに言っていることは同じだと受け取っている。
そこへ至る道がことなっているだけだ。

(2015-09-09 SNS日記より)

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