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自責の念 (自分のためのメモ) [思想]

自分はダメだという思い、つまり自責の念にかられて、
苦しむということがあります。

この苦しさは、自分の分裂による苦しさです。
ダメな自分と、それを許せない自分。
この二つに分離してしまっています。

苦しむのは、ダメな自分をみて、
こんな自分ではダメだと思うからです。
ならば、ダメだといっている自分は、ダメではないのか?
ダメさ加減が分かっているのだから、
わかっている自分の方は、ダメではないのでしょう。

しかしながらダメな自分を見て苦しむということは、
ダメではない優れた自分でありたいと思っています。

優れた自分でありたい強い願望があって、
それが裏切られるから苦しいということです。
この願望の存在があるからジレンマが生まれる。
強い願望がなければ、ダメな自分でも苦しまないのです。

したがって、ダメな自分の存在ばかりが
強調されてしまいますが、
ほんとうは優れた人間でありたいという、
つよい願望を持つ自分がいることを自覚すべきです。

妬けになったり、死にたいとか思うのは、
本末転倒です。拗ねているに過ぎない。
優れた自分でありたいという願望を持つ以上、
その路線で邁進するしかありません。

(2015-02-02 SNS日記より)

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事実と思い (自分のためのメモ) [思想]

認知療法でいう「認知のひずみ」について、日記で触れていますが、
じつは仏教の根本にある思想とあい通じる点が多く、
基本的にはよく似ている考え方です。
一方は東洋から生まれ、
他方は西欧から生まれたわけですが。

仏教では、目の前に展開することがらは、
良くも悪くもなく、何の意味付けもないものだととらえます。
それを人間が、良い悪いと味付けをしていると考えます。
(あらゆる意味づけを排除した先にある世界のことは、
ひとまずおいておきます)

雨が降る。
このことに、なにも良い悪いの意味づけはありません。
お出かけする人にとっては、服が濡れてしまうので、
憂鬱な雨だとか言うのでしょうけれど、
その人の(勝手な)価値判断で意味づけを行っています。
農作物をつくる農家ならば、その雨は恵みととらえるかもしれません。

立場が異なれば、いかようにもものごとの善悪や意味は変化します。

人間の感情に関しても、同様です。
外界のものごとが人間の感情を引き起こす
おおもとであると考えてしまいがちですが、これはちがいます。
外界のものごとを、その人がどう解釈するかによって、
それぞれ感情が引き起こされるのです。

つまり外界でおきる現象は、感情の直接原因ではなく、
受け取った人の解釈が介在しており、
それが感情の原因となっているということです。
ある人にとって不愉快な出来事も、
他人事として受け取る立場の人にとっては、
何でもないことです。

外界のできごとが感情を引き起こすと思い込んでいると、
そのできごとにいちいち振り回されてしまいます。
外界のことがらの意味づけと、引き起こされる感情の自動化
という現象が固定化されます。
これはとても窮屈な精神状況といえます。

これらのことから、無意識に行っている外界の解釈という
介在物を自由にしてあげることで、
意味づけや感情の鎖から開放される可能性があるということです。
認知療法は、この点を衝いて行きます。
また、禅仏教はこの解釈の鎖から
人を開放することを眼目にしていると考えています。

(2015-01-31 SNS日記より)

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認知のひずみ (自分のためもメモ) [思想]

前日記に記した内容に関連し、うつに陥る考え方、
つまり認知のゆがみパターンを、リストアップしてみます。
(高田明和先生の著書を参考にまとめています。)
このようなひずんだ考え方が自分を支配していないか
チェックすることはとても重要と思います。

(1)白黒をつけたい傾向、ラベル貼りの傾向
ものごとをハッキリと割り切らないと気持ちが悪い。
なにか失敗すると、すべてダメになり将来はないと断定するなど。
また自分はダメ人間というラベル貼りをするのが得意。

(2)単純化し、結論付けたがる傾向
出来事に対して、なぜ起きたかその理由を探し出し、
その推論が合っているかどうか分からないのに、結論を導く。
人がイヤな顔をしたら、自分のことを非難し嫌っていると
決めつけてしまうなど。根拠が明確でないことに対しても、
性急に結論付けてしまう。

(3)自分勝手なフィルターで見る
自分の過去の出来事で、辛かったこと、
苦しかったことばかり思い出し、マイナス思考に入っていく。
いいこと、上手くいったことなどは視野に入らない。
人からほめられても、それはお世辞だと断定する一方で、
他人のイヤな顔を見ただけで、自分は嫌われていて、
ダメな人間だと決めつけてしまう。

(4)拡大化、矮小化する
ちょっとした小さいことがらでも、それが自分を責めている
出来事であるかのように、拡大して受け取る。
人前で上手く話が出来ない出来事があったときに、
それで自分の全人生が終わったように感じてしまう。

(5)感情を重視する、感情に振り回される
愉快でない事柄を前にして、その不快感情にとわれてしまい、
こだわりから抜け出せない。
感情に支配されている自分をダメな人間、
迷惑ばかりかける仕方のない人間と結論付ける。

(6)強い義務感
人間はこうすべきだ、他人に対してこうすべきだという強い義務感をもつ。
自分に対しては、こういうことが出来ない自分はダメなのだ、
完全でない自分はダメとと結論付ける。
また自分を認めない他人はダメなのだと、批判的になる。

(7)自責の傾向、完全主義の傾向
自分の責任でもないことを自分の責任だと受け取る。
そのことで苦しむ。どうしようもないこともあるとは
考えられず、責任を取りようもないことも自分の責任だと
責める。
自責の念を持たなくてよいのは、神のような
完全存在でなければありえないのに、
神のようでないことを責め、苦しむ。

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いずれの傾向も、よく陥りがちの傾向で、
注意していないとその想念にとらわれている自分に
なってしまいます。

これらの傾向を全体として眺めると、
・強い自分
・強い自信を抱いた自分、
・完全な自分
・強力な理解力を持つ自分

というありえないような理想像を、
自分に課している無理な姿勢が共通です。
考えに柔軟性がなくて、明快な論理で
世の中や出来事に対処しようとしているのです。

その理想像と現実の自分のギャップが大きいほど、
内部摩擦は大きくなり、それが昂じると
自分の体力(こころの体力)の限界を越えてしまいます。
するとうって変わって、へたり込んでしまいうずくまって
立ち上がれなくなる事態に陥るのです。

もっとゆるゆるで、いい加減で、頼りなく見えても、
しなやかに生きればいいのです。

(2015-01-30 SNS日記より)

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